私は子どもの頃、嫌いな食べ物が多く困ったものであった。とかく病弱だったので甘やかされて育ったためか、料理の不得手な母の作るものが不味かったせいか、とにかく嫌いなものが多かった。ほうれん草や春菊などの青野菜、大根の煮染めはもとより、茄子にキュウリ、西瓜などいずれも苦手で、夏の食卓ではほとほと悩まされたものである。煮魚も小骨の処理が私は特に苦手で、好きなものでは無かった。味噌汁の中に浮かんでいるダシの炒り子も苦手で、はねだしては「こんな魚でも獲る人の苦労を考えなさい」と、その度に母に叱られたことであった。蒲鉾とか薩摩揚げ(当時私達のところでは、もっぱらテンプラと言っていた)は骨が無いので好きな食べ物であったが、当時の店では新聞や雑誌の古紙に包んで渡すのが普通であったから、衛生にやかましい母は必ず火を通してからしか食卓に上げることはしなかった。明太子(当時は鯛の真子と言っていたようだが)も焼いたものしか口に入らなかったが、弁当に入っている時は、思わず万歳をしたくなる程嬉しかった事を憶えている。
しかし好き嫌いも勝手に言えたのは中学生までで、高等学校に入学し寮生活を始めるようになってからは、とにかく食卓に出てくるものを食べる他なく、次第に好き嫌いも少なくならざるを得なかった。
今まで嫌いで敬遠していた茄子の味噌汁やキュウリの漬け物も、食卓を共にする友達から馬鹿にされまいと、一気に呑み込むようにして食べた。煮魚にしても、きれいに骨だけにしてしまう友達の皿を前にしては、なんとかそれに負けぬよう努力した。それでも食後、食器を炊事の窓口に返しに行ったとき、炊事の小母さんから「もったいない食べ方だねえ。親御さんはどんなしつけをしたんだろうね。」と言われた一言ほど、私の胸にこたえたことは無かった。その頃ちょうど、すべてにおいて消極的な自分の性格を改造しようと心秘かに思っていた時でもあったので、自分の嫌いな食べ物も何とか克服しようと決心した。
福高の二年生の半ばになり、寮を出て下宿することとした。小学校の同級生であった藤井素子さん(彼女は小倉高女三年生のとき腎臓病で亡くなったが)のお母さんが、素子さんの死と相前後してご主人まで亡くされ、男の子どもさん三人と末のお嬢さんを抱え、福岡高校の裏手に当たる浪人谷に移り住んでおられたが、そちらにお世話になることとなった。亡くなられたご主人は私達の明治小学校の校医で、学校の正門前にその診療所があり、病弱な私はそこで太陽燈の照射治療を受けるなど、格別お世話になったのだが、治療後は当時一緒に治療を受けていた田中公二君(東京理科大教授)と、棟続きの住まいで遊ばせて貰ったりしたものである。そんなご縁で今から考えてみると、ずいぶん迷惑なことであったと思われるが、お願いしたら快く承諾して頂いた。
小柄な、まことにサッパリしたお人柄で、実の母親のようにお世話頂いた。かつて小倉高女の家事の先生をされたこともあり、料理は格別得意であった。そちらにお世話になった昭和十五年十六年という年は、長い日支事変から太平洋戦争へ突入しようという時代で、主食は配給制となり、衣料切符が交付され、よろず物不足がじりじりと深刻化する時代であった。その難しいご時世に、食べ盛りの四人の子どもの他に私まで引き受けて、毎日どのように食べさせるか、今考えると、そのご苦労は並大抵のことではなかったに違いない。
私は小学校の頃から骨皮筋衛門とあだ名されるくらい痩せていたので、「佐藤さん少しは太ってくださいよ。私がなんにも食べさせてないように近所の人に思われるじゃないの。」と、よく冗談を言われたりしたが、乏しい材料を使って美味しい食事を作ることは、まことに上手であった。
しかし、ある日糠漬けにした鰯を出されたのにはホトホト閉口した。生来、気の弱い私は、それが最初に出されたとき、つい、「これは珍しいものですね。さんしょの実がピリッと効いて、こんなに美味しいものは初めてです。」と心にもないお世辞を言ったのが運の尽き、「アラそんなに喜ばれるとは思わなかったワ。」と奥さんが、いともよろこばし気に、のたまわれてからというもの、連日のように食卓に現れることとなった。
奥さんの家族と一緒に食事をするのだから、食べたふりをして適当に処理するようなことも出来ず、かと言って初めにお世辞を言った手前、今更嫌いな顔もされず、一生懸命笑顔らしきものを作って食べたものである。しかし、なせば成るの諺ではないが、何度も努力して食べているうちに本当に好きになったのだから不思議なものである。
それから十数年経って小学校のクラス会に、故素子さんのお母さんも呼ぼうじゃないかと言うことになり、奥さんを招待した席で、そのことを告白したら、
「いえ、私は初めから気がついていましたよ。でも、あの頃カルシウムやタンパク質を取らせるには鰯しかなかったし、糠も大切なビタミンでしたからね。それにしても嘘を本当にしてしまった佐藤さんにも、感心したものでしたよ。」と変な褒められ方をしたことであった。
私が学徒出陣で福岡の部隊に入隊していたとき、物資の乏しい中から、おはぎなどを持って度々面会に来て下さったこともあった。その奥さんも既に故人となられてしまったが、あれほど好き嫌いが激しかった私が、今日ほとんど嫌いなものが無く、なんでも美味しく頂けるようになったのは、寮生活とともに、奥さんのおかげであると感謝している。(平成二年)
ramtha / 2011年4月12日