老境に入ってからは、滅多に夢を見なくなったような気がする。あるいは見ても朝の目覚めとともに、すっかり忘れてしまっているのかも知れない。まだ、夢と現のけじめもつかぬ程、もうろくしたとは思わないのだが。
昨夜は珍しく夢を見た。三十四、五年前住んでいた、旌忠公園(せいちゅうこうえん)下の社宅から、川島の方へ下りて行く道を歩いている。今は四十歳にもなっている長女が子どもの姿で前を走って行く。これも幼児姿の長男が追いかけて行く。と思ったらいつの間にか、こんな所に来たこともない筈の孫の聡に、二十年も前に亡くなったお袋が話しかけている。と、周りの風景は私が育った小倉到津の西南女学院の丘になっていた。なんとも取り留めもない夢を見たものだ。
昨年十一月から、こちら(飯塚の長男の家)に来て、北九州や飯塚の思い出の地を歩き回ったので、こんな夢を見たのだろうか。夢は普段あまり自覚しない深層心理が浮上するものだと聞いたことがあるが、自分の関心事は、もはや子や孫のことのみになってしまったのだろうか。幸せといえば幸せなことだが、その他のことは夢にも見ないというのは、情けない気がしないでもない。
考えてみれば、昔は随分いろいろな夢を見たように思う。麻生の労務課時代は幾度となく団体交渉の夢を見たし、経理部長のときは、手形が落ちずハッと夜中に眼を覚まし、夢であったかと安堵したこともあった。あの頃は仕事の悩みに夜まで苦しめられていたのであろう。
子どもの頃の夢と言えば、猛獣に追いかけられ一生懸命逃げようとするが、足が重く走ることが出来なくて、自分の悲鳴で目を覚ますと、布団の中でバタバタしていたことがあった。また、しばしば高いところからストンと落ちる夢を見たものだ。あれは気持ちの良いものでは無かったが、「その時に身長が伸びているんだよ。」と父に教えられたことがあるが、果たしてどうだろうか。そう言えば、身長の伸びが止まった中学卒業の頃からは、落下する夢は見なくなったような気がする。
きたない話だが、トイレがしたくてたまらないのに、しかるべきトイレが無くて困ったこと。トイレがあっても、そこら一面汚れていて、足の踏み場もなく、なさけない思いをした夢を幾たびも見た。
戦時中、内地防衛部隊として大隅半島の山間部の仮兵舎に起居していたときは、足元も危ないような坂を上っていった所に穴を掘り、不安定な板を二枚差し渡しただけの急造トイレで、屋根は木の皮で覆い、周りはムシロを垂らしただけという代物であった。梅雨時の雨の降り続く夜、それこそ真っ暗闇の中、ずるずると滑る斜面を用心しながら恐る恐る上がり、勘と見当でトイレと覚しき所へ近づくと、雨でじっとり濡れたムシロがペタリと頬に当たったときの気味の悪さ。筑豊弁で言う「しるしい」かぎりの思いをして用を足した経験が、戦後二十年近くも夢に現れたものである。
軍隊の時のことと言えば、福岡の西部四十六部隊(その兵舎跡地は平和台球場となっている)の初年兵であった時の事である。毎晩点呼前に銃の手入れをし、内務班(兵隊の居室)の中央廊下にある銃架にかけて就寝するのだが、ある夜消灯とともにベッドに入っていると、当日の週番の畠中上等兵が、その銃架の所から「OO番の銃は誰か。起きてこい。」と怒鳴っている。よく考えてみると私の銃である。慌てて飛び起きて行くと、彼は私の顔を見て、「なんだ、お前か」と言って、顎をしゃくって私の銃を見ろと言う素振りをする。私は自分の銃を見た瞬間、心臓が止まるほどの衝撃を受けた。なんと、つい先ほど手入れして全く異常の無かった私の銃の銃身から、遊底一式が無くなっているではないか。
当時の軍隊では、小銃には菊のご紋刻印されており、つねづね「天皇陛下からのお預かりものだから自分の命より大事にせねばならん」と教えられ、その部品の一つでも傷つければ営倉行きとなる。
私は事の重大さに、なぜ無くなったのか、何時盗まれたかなど考える余裕もなく、目の前が真っ暗になってしまった。すると畠中上等兵は、声をひそめて「銃を持って俺についてこい」という。屠所にひかれる羊の想いで、足音を忍ばせて彼について行くと、中隊の兵器庫に連れて行かれた。暗い兵器庫の中で彼の質問に私はありのままに答えた。すると「点呼から消灯までの間に盗まれたんだな。俺が週番だったから良かったものの、本来なら重営倉だぞ」と言いながら、兵器庫の中にある遊底の一つを取り出し、「とりあえずこれを差し込んでおけ。銃身と遊底の番号が合わんのは仕方がない。明日、班長にこの銃はどうも照準が合わんと兵器係の畠中上等兵が言っとったと申し出ろ。そしたら銃身込み番号の揃った銃に取り替えてやるからな。兵器台帳の方も、そのとき書き換えりゃ何も分からんごとなる。」と言ってくれた。まさに地獄に仏、なんとお礼を言っていいのかも分からず、立ちつくしていると、「他人に怪しまれんごと早う内務班に帰って寝ろ。」とせきたてる。私は無言のまま幾度もお辞儀をして、再び足音を忍ばせてベッドに戻った。
翌日言われた通りにして、無事銃身、遊底とも番号の揃った銃に取り替えて貰った時は、畠中上等兵になんべんでもお礼を言いたかったが、班長に怪しまれぬよう、礼は言うなという彼の目配せに従って黙ったまま引き下がった。
私は何時か何かの形で彼の好意に報いたいものだと思っていたが、その後間もなく彼は沖縄へ転属、苛烈な沖縄戦で散華したと風の便りに聞き知った。彼の好意は私にとって永久の借りとなってしまった。この時の衝撃が深く脳裏に刻み込まれたのであろう、復員し平和な時代になってからも、幾度となく夢に見たものである。夢の中では畠中上等兵は現れず、何時も遊底の無い銃身を持つ自分が班長の叱責の前にただうなだれて立っていた。この夢も戦後二十年位見たように思う。
夢のなかで最も多く見たのは試験を受けている夢である。夢の片隅で、もう試験など受けなくて良い身分になった筈なのにと、思いながらも試験を受けている。それも毎回きまって不得手な語学の試験で、分からぬ単語に振り回されている夢である。心の片隅でもっと勉強をしておくのだったと、後悔しながら夢を見ている。大学での最後の試験が昭和十八年だから、試験を受けなくて良い身分になってから尚四十年ばかり試験というものには、夢にまで悩まされ続けた事になる。
晩年になって、中小企業診断士や社会保険労務士などの資格試験を受けたが、そのようなものは一度も夢に見たことはない。自分自身あまり真剣ではなかったということだろう。
嫌な夢の一つが、歯がバラバラと抜けて無くなる夢である。なんとも言えぬ気持ちの悪いものである。人の話では、トイレの夢は吉夢だが、歯の抜ける夢は凶夢であるとか。その凶夢を今まで幾度となく見たことである。しかし、それも現実に殆どが入れ歯になってしまった今日は見ることもなくなった。これが本当の情けないハナシと言うのであろう。(平成二年)
ramtha / 2011年4月11日