柔らかい日射しがベランダに降り注いで、穏やかな元日の朝となった。まことに静かなよいお正月である。人生五十七回目の正月を迎えることとなったが、これまでのさまざまな正月にはそれぞれの思い出があって、今となってはそのいずれもが懐かしく感じられる。
子どもの時、小倉の西南女学院の教員住宅に住んでいた頃は、知覚の丘で凧揚げをしたり、竹馬に乗ったりして遊んだが、何をしても不器用で、よろずに器用な兄には絶対かなわなかった。当時の凧は当今のようにいろいろな凧があるわけではなく、たいていは子ども相手の一銭駄菓子や(一銭店などと言っていた)の店先に吊り下げてある、奴凧を買ってきて、それに糸と新聞紙を細長く切った尾をつけて揚げたものだった。
しかし同じようにしても兄の凧は格好良く大空にグングンと昇っていくのに、私の凧はものの四、五メートルも上がったかと思うと、狂ったようにグルグル回って落ちてしまう。兄に言わせると、尾の付け方が悪いのだと言うが、同じように尾をつけても私の凧は言うことをきいてくれない。たまさか少し高く上がったかと思うと、近くの松の枝や電線にひっかかってしまう有様であった。竹馬に至っては体の平均をとる神経が駄目なのか、ついぞうまく乗りこなしたことがない。それでも寝床のなかで迎えなくてすんだ正月は私にとっては素晴らしく幸せな正月であった。
その頃毎月とって貰っていた少年倶楽部の新年号には、いろいろ楽しい付録がついていたが、いつも必ず双六が一つ付いていて、それを正月には兄弟で楽しんだものである。いろいろあった双六の中で、地球を振り出しに金星や土星を巡って最後に太陽で上がりになる宇宙大旅行双六が今でもはっきり思い出される。冥王星などという神秘的な星の名前もこの双六で初めて憶えたものだった。ロケットも発明されていない時代で、宇宙旅行など夢のまた夢であったが、それだけに子ども心にとっては想像の世界の強烈な魅力があったのであろう。
カルタは初めはやはり「いろはカルタ」で遊んでいたが、父が百人一首を買ってくれてからは、「いろはカルタ」はなんだか幼稚な気がして見向きもしなくなった。わが家ではいつも父が読み手で、家中でカルタ取りをした。時には当時わが家に出入りしていた明治専門学校(現在の九州工業大学)の学生も加わって賑わった。もちろん歌の意味など分かるべくもなかったが、父の実に調子の良いリズミカルな読み声を聞くのが好きで、大人の中にまじって取ったものである。初めのうちは誰でもそうであるように「田子の浦」「大江山」「天の原」などの数首を憶えているにすぎず、一枚取れるか取れないかという状態であったが、源平取り(二組に分かれての対抗戦)に加えてもらおうと、十二月になると毎年一生懸命憶えて、三年生ぐらいの時には大人と太刀打ちできるようになり、五年生の頃には百首全部暗唱できるようになった。当時の暖房と言えば部屋の片隅に置かれた火鉢ぐらいであったが、寒さも忘れて夜遅くまでカルタ取りに熱中した。百人一首は私にとって正月の最大の楽しみであった。
後に家庭をもつようになって、子どもたちはまだ小学校にも上がらない頃だったが、飯塚本町の元野木書店で百人一首を見つけ、矢も盾もたまらず、大枚五百円(当時の私の買い物としては、随分思い切った値段であったが)をなげうって買ったのも、子どもの頃の正月への強い郷愁のなせるわざであったろうか。
会社の独身寮にいた頃は、寮生同士でカルタ取りが盛んに行われた。当時の麻生本社には紅葉寮と大浦寮と二つの独身寮があり、寮対抗のカルタ会などもあった。また寮生だけでなく女性社員も勧誘してなかなか華やかなものになったので、それまで百人一首を全然知らなかった寮生まで、女性の前でいい格好しようとの一心で憶える者も少なくなかった。そのような時、私はたいてい読み手を引き受けることとなった。子どもの頃聞き惚れた父の読み声を思い浮かべ、それに近づくように心がけて読むのだが、なかなか父のように上手に読むことは難しい。その後職場でのカルタ会やわが家のカルタ取りに、三十年余読み手をつとめ、今までに何百回か百人一首を読んできたが、私の耳に残っているあの父の美声には未だに遠く及ぶところではない。しかし私は百人一首を自分なりのリズムで読むことが好きである。毎年正月に百人一首の読み手をつとめる度に亡き父のあの優しい面影が私の胸に蘇ってくる。
百人一首は読み手の上手下手で楽しさがぐんと違ってくるものである。これからもお正月を楽しくするために読み手をつとめ、自分の子どもや、さらに欲を言えば孫たちからもお正月の度に思い出してもらえるような声で読み続けたいものである。
階下では先ほどから賑やかな話し声が聞こえている。恒例の親戚よりにみんなが集まってきたようだ。ではそろそろ下りて読み始めるとするか。
「由良の門を渡る船人舵をたえ 行方もしらぬ恋のみちかな」
(昭和五十四年)