筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「思い出したくない記憶」

毎年この時期になると、テレビも新聞も戦争中の話題を連日取り上げる。国民に反戦平和教育をしているつもりか知らないが、戦後六十年、毎年の事だからいささか食傷気味で、近年はあまり見ないことにしている。
 
私は昭和十八年十二月から終戦まで、一年九ヶ月ばかり軍隊生活を送ったが、終始内地勤務だったので従軍したとは言えない。
 
軍隊生活の記憶は、初年兵期間の暗く辛かったことばかりで楽しくない。福岡の歩兵二十四聯隊の内務班では、ことさら鈍間(のろま)で不器用な私は、人一倍殴られ、ろくろく入浴も出来ない日々であった。
 
本土防衛部隊の一員として、鹿児島県大隅半島に駐留したときは、山の中の傾斜地に建てられた、あばら屋にも等しい仮設兵舎に起居し、蚤(のみ)虱(しらみ)に悩まされたが、あの不愉快さを思い出すだに体中が痒くなる。
 
昭和二十年四月、不衛生な環境の中で発生したアメーバー性赤痢に感染し、大崎小学校の校舎に設けられた陸軍病院に入院した。
しかし薬もろくろく無い有り様で、まともな治療も受けられず、自分で密かに梅肉エキスを作り服用して一命を取り止めたが、あれは生き残るためというより、一日に数十回も下痢する苦痛から逃れたい一心であった。
 
また、志布志の町中で米軍飛行機の地上掃射を受けて逃げ回ったり、敵の上陸して来る戦車の下に、背嚢爆弾を背負って飛び込み破壊する自爆練習をさせられたりしたが、その頃の自分は何を考えていたのだろう。死ぬことより不具になって生き残ることを恐れていたような気がする。いずれにしても、ニヒルの海を漂っていたのではないかと思う。
 
戦闘に参加して敵兵と殺し合うような経験はないが、軍隊での事は、思い出したくないというのが、今の気持ちである。
 
(平成二十五年七月三十日)

ramtha / 2013年12月19日