久しぶりに飯塚病院の整形外科を受診した。
この暑い中、些か億劫な思いではあったが、予約日だから行かないと改めて予約し直さなければならない。そんなことで重い腰を上げて出かけた。
猛暑というのに、病院は相変わらず沢山の人で溢れている。昔の姿を知っている私には、いつものことながらその変貌に感慨無量の思いがする。
飯塚病院は(株)麻生商店の初代社長麻生太吉氏が、地元飯塚への社会貢献のために設立したものと聞いているが、私が麻生産業(株)に勤務していた頃は、一般の患者も受け入れてはいたものの、会社の付属病院に過ぎなかった。
所が、エネルギー革命で炭坑がすべて閉山し、セメント部門はフランスのラファージュ社との合弁会社となった今日、病院は(株)麻生の主力事業となっている。
近年は麻生泰会長、巌社長の指導の下、近代的総合病院として大きく発展、すっかり面目を一新している。
私の受診する整形外科だけで、当日常勤医師の名前が七人も掲げられている。全国各地の病院の中には、勤務医の確保が出来ず、やむなく閉院するところもあると言われているが、そうした地域の病院から見れば、まことに羨ましいに違いない。
今の飯塚病院は二〇〇名を超える常勤医師をはじめ、看護師、薬剤師、レントゲン技師、衛生検査技師、事務員、雑役夫など従業員二千人に及ぶ大所帯であるという。
1000床を超える入院患者に外来患者を合わせると、昼間の人口はどの位になるのだろう。五千人を超える地方の町村に相当する規模ではあるまいか。
今年初めに新館建設が竣工し、以前は暗い廊下に診察を末患者が溢れていたが、今ではすっかり明るく広々とした廊下に外来患者のための椅子が設けられている。部屋数も多く、たまに訪れる私など、ややもすれば迷子になりそうで、しばしば院内の案内係の手を煩わせる有り様である。
昭和三十年代、会社が斜陽の炭坑を抱え、経営状態の思わしくない時代、事務長をされていた今川滋さんは、医師確保のため、九大医学部や熊本医大、長崎医大などに出向いて懇願して廻るなど、ずいぶんと苦労されていた。
当時私は、全職員給与を管理する人事担当者として、医師の給与改善を要求する今川さんとは、ずいぶん激しく渡り合ったことである。
今川さんは私が吉隈炭坑の駆け出し労務係の時、既に吉隈炭坑の副長をされていた大先輩である。仕事の上のこととは言いながら、その今川さんに対して失礼な言辞を弄したこともあり、その後の酒席で陳謝したことがあったが、その時
「お互い仕事のことではカーッとなるものよ。気にするな気にするな」と言われ、今川さんの人柄に改めで感動したことが思い出される。
その今川さんは平成五年に亡くなられたが、こんな立派な病院を見られたら何と言われる事だろう。
薬局の前の椅子に腰掛けて薬を待つ間、昔のことなど考えていたら、名前を呼ばれたのも分からなかった。
「昔はえらく勇ましかった貴公も、とうとう惚けが始まったか。年は仕方がないものよのう。そろそろこっちに来たらどうだ。」
今川さんのそんな声が聞こえて来る。
(平成二十五年八月二十二日)