大正十二年の関東大震災から満九十年になる。
関東大震災は発生が真昼であったから、どの家も火を熾(おこ)して煮炊きをしていたため、地震の震動による被害より、火災の延焼の被害が大きく、東京は一面焼け野原となってしまった。しかし、その後の復興は目覚ましく、たちまち近代的な街へ変貌を遂げた。
私は昭和十七年初めて上京し、山手線、中央線など多くの国鉄電車と、二十三区内至るところに、網の目のように張り巡らされた市内電車が、刻(とき)を置かず走る有り様に驚いた。
しかし、それも束の間、昭和二十年には第二次世界大戦で米軍飛行機による大空襲を受け、再び焼け野原となってしまった。
昭和二十二年夏上京し、中央線電車の窓からその光景を目にして愕然とした。
学生時代通学の度に見慣れた、阿佐ヶ谷から高円寺、中野、大久保に至る沿線は、焼け爛れた立木と雑草の生い茂る中に、傾いたトタン屋根のバラックが点在する姿を曝していた。
見ると勤め先から帰宅したのか、うら若い女性がそのバラックの中に入って行った。その屋根越しに見えるポプラの木に真夏の夕陽が照り返し大きな葉が風に揺れていた。
関東大震災直後の風景も、あのようなものであったのだろう。
私は子どもの頃から、大地はもとより、周辺の建物もいつまでも姿を変えること無く、其処にあるもののように思っていた。それだけにこの時のショックは大きかった。
一昨年の東日本大震災の被害者も、同様なショックを経験したことだろう。いや、彼らは自分の家はもとより、家財道具も着替えの衣類すらも一切失い、着の身着のまま投げ出されたのだから、心の痛手は遙かに深刻なものであるに違いない。
昭和四十六年上京、目黒区八雲の借家に転居した。当時は関東大震災から約五十年、そろそろ再発の恐れがあると言われ、震災発生時の備えとして、区役所から「非常持ち出し袋」なるものが各戸に配られて驚いたことであったが、幸いにしてその後二十年間、首都圏滞在中何事もなかった。
最近は近い将来、東南海大地震が予測されるとかで
「東南海トラフがどうのこうの・・・」とマスコミがしきりに伝えている。
日常、人間は何も考えずこの地球上で暮らしているが、地球は三十六億年もの昔から地殻変動を繰り返しているとか。時折火山の噴火や地震の発生でわれわれを驚かせるが、地球に尋ねれば
「俺は毎日呼吸をしているだけで、時に咳払いや嚔(くしゃみ)もするが、お前達が大騒ぎしているに過ぎない」と言うのかも知れない。
しかし、われわれ人間にしてみれば、直接被害を受けないにしても想定外の事で、日常生活の予定が狂って甚だ困る。
「折角貰ったプロ野球の入場券が無駄になる」
「やっと口説き落とした彼女とのデートがおじゃんになる」
などと悔やんでも聞いてくれない。
かと言って、年中地球のご機嫌を窺っていては、気の休まる時も無い。
どうしたら良いのだろう。
そうだ!赤ん坊に戻るか、認知症になるかだ。
天国で気楽な暮らしを楽しんでいたアダムとイブも、知恵の実を食べたばかりに、地上の世界に落とされ苦しむことになったと旧約聖書にあるという。
そう言えば昔耳にした歌にもこんなのがあった。
”綺麗な薔薇には刺がある 綺麗な女にゃ罠がある
知ってしまえばそれまでよ 知らない内が花なのよ”
どうも人間の悩みの原因は「知ること」にあるらしい。
諺にも「知らぬが仏」というではないか。
(平成二十五年九月一日)