あれは私が中学四年の夏休みのことだったから昭和十三年のことである。
昭和六年に始まった満州事変が、日本政府の再三にわたる戦争不拡大の声明にかかわらず、現地軍部の暴走にひきずられて日中戦争(当時わが国では支那事変と称していた)へ発展して行く、そういうご時勢であった。
あの世界各国を相手とした太平洋戦争(大東亜戦争)にはまだ突入してはいなかったが、中国大陸へ次々と兵力が投入され、巷では毎日のように日の丸の旗と歓呼の声に送られて応召兵が出征して行き、国内労働力不足を補うために学生の勤労奉仕が行われ始めた年でもあった。
私たちの小倉中学では四、五年生夏休みの前半、陸軍造兵廠小倉工場へ勤労奉仕に行く事となった。仕事は手榴弾に火薬を詰める作業であったが、飛散する火薬の粉末を防ぐため作業中は必ずマスクをかけ、確か一時間毎だったかと思うが、毒消しと称してコーヒーを飲ませてくれたことを憶えている。
果たしてコーヒーが効果のあるものかどうか分からないが、二十日間の作業で夏服の草色のズボンが代赦色(たいしゃいろ)に変色し、洗濯したらその変色した部分がボロボロになったことから、薬害の凄さを実感したことであった。
いまどきなら労働安全衛生法の年少者危険有害物労働禁止条項に該当することだろうが、一億火の玉、総力戦の当時のこと学校当局も、父兄も、また我々自身も何の疑問も抱かず、従事したものである。
母はひ弱な私の健康を気遣っていたものの、そうした危惧すらあらわに出来ない世相で、ひとり心を痛めていたのではないかと思われるが、私自身は受験勉強に明け暮れる日頃の生活とは異なり、工場での作業は単純労働にもかかわらず新鮮な感じがあり、コーヒーをふんだんに飲めることもあってまことに楽しい日々であった。
その後の学徒動員は、戦争の深刻化につれ恒常化するとともに、随分と厳しいものとなったようだが、この時の勤労奉仕は作業そのものは軽作業で、就業時間もたしか六時間ほどのことだったと思う。おまけに奉仕終了日には予期せぬ日当まで支給された。
当時九州歯科医専に在学中の兄も夏休み中の勤労奉仕で日当を手にしていたので、その金で旅行をしようということになった。旅立ちの前後のことはよく憶えていないが、とにかく急に思い立ったのであろう、小倉発の最終列車で博多まで行き、博多駅の待合室で夜明かしをした。
自分で働いて得たお金というのも、兄弟二人きりの旅というのも初めてのことで、いささか昂ぶる気持ちを抑えながら眺める夜汽車の窓に沿線の灯が瞬いていた。
翌朝は筑肥線の始発に乗り西へ、白砂青松の糸島海岸から虹の松原を眺めて呼子の港へ行き、遊覧船に乗って七ツ釜見学をした。
遊覧船と言っても古ぼけた木造のポンポン船で、船頭のほかに赤ん坊を抱えたおかみさんも乗っていたから、一杯船主で、漁業の合間の遊覧船で稼いでいたのかも知れない。
この旅行の企画や折衝は兄がしたことであったろうが、この時の乗客はわれわれ二人だけで、言わば貸し切りであったが、今から考えると学生の身で随分豪勢な遊びをしたものだ。船賃はいくらだったか記憶にないが、何とかわれわれの財布で賄えたのだろう。
柱状節理の岸壁に玄界灘の荒波が気の遠くなるような時間の営みで穿った穴の中にはコウモリが飛び交い、薄気味悪い洞窟であった。
その後どういう経路を辿ったのか定かでないが、有田駅でやや暫く乗り換えの時間待ちをしたように思う。小雨でも降っていたのかも知れないが、駅前の通りは何となく暗く侘しい印象が残っている。後年、有田の陶器市に行ったとき、えらい人出の賑わいで、これがあの時と同じ街並みかと驚いた事であった。
有田から諫早に出て、諫早からバスで千々石湾を見下ろす愛野展望台を越えて小浜温泉に着いた。バスで乗り合わせた高校生(たしか大阪高校の学生だったと思う)と三人で、財布と相談しながら、自分たちにふさわしい宿を探して歩いた。
辿り着いた旅館は浜辺にあって磯の香りが漂い、夜通し潮騒の音が聞こえていた。
次の日はバスで雲仙へ上がったが、普賢岳には登らなかった。雲仙のバス停の近くには西洋人の別荘であろうか、美しい芝生の庭で白人の夫婦が腰掛け談笑し、その傍らで中国人のメイドが白人の子どもの守をしているのが見かけられた。何かもの悲しく憤りのようなものを感じた風景として、記憶の底に残っている。
雲仙では何を見、何をしたのか、その他の事は憶えていない。
バスで島原へ下り、船で三角に渡り熊本の伯父の家を訪れた。その間、お天気が良かったことと、車窓から眺める宇土半島が平坦で意外に広いと感じたことのみ思い出す。
前夜同宿した高校生とはどこで別れたのだろう。雲仙で別れたのか、三角まで同行したのか定かでない。
伯父の家に一泊したのか二泊したのか、熊本市内の見物などしなかったのか、そのあたりのことも記憶にないが、伯父の家に入るとき庭の垣根に大輪のひまわりの花が暮れなずむ薄暮の中に浮かんでいたことのみ鮮やかに思い出されるのは何故だろう。
熊本より豊肥線で坊中駅(現在の阿蘇駅)へ向かう。
途中地理で学んだスイッチバックを現実に体験し、いたく感激したことが思い出される。坊中駅からは観光バスで中岳へ向かったが、七五調で歌うようなバスガイドの美声が忘れられない。
そう言えば、バスガイドの観光案内が、当今のような口語会話調になったのはいつ頃からなのだろう。昔はすべて「右に見えるは阿蘇山の-中でも高き高岳の-・・・・・と申しま-す」と言った七五調の美文暗唱で、美声と名調子が売り物であった。千篇一律で個性がないと言えば個性が無く、一方的と言えば一方的な案内ではあったが、当今のガイドにままあるような、乗客の反応を矯正する嫌らしさがなく、エンジンリズムと調和する快い観光のBGMであったように思われる。
もはや、あのような名調子に聞き惚れる事ができないのは、些か淋しい気がするが、これは私ひとりの感傷であろうか。
バスが山頂へ上がるにつれて次第に視野が広がってくる。外輪山の内側に横たわる阿蘇谷の豊かな美田、その中に点在する白壁の民家、黒い森の木立、阿蘇五岳の空に浮かぶ夏の雲、草千里に遊ぶ牛の群れなど、私の瞼に灼き付いたその雄大な風景は、思い浮かべる度に今なお私の心を揺さぶってならない。
阿蘇観光の後は、三重町経由で臼杵の大伯父宅を訪れ、旅の終わりとなったが、暗く重苦しい戦雲の下、受験勉強に明け暮れた中学時代における、ほんのひとときの、しかしそれだけに輝かしい思い出となった兄弟旅行であった。
(平成二年)