先月二十五日の毎日新聞の「時代の風」には、京都大学学長の山際寿一氏が、最近の世相を憂慮し「道徳の低下と孤独な社会」と題する論説が書かれていた。いろいろと教えられることも多くあったので一部を書き抜きする。
① 群れを作る猿は仲間の行為を見てそれに同調し、共感する能力を持っている。チンパンジーなどの類人猿はさらに苦境に陥る仲間を助けようとする。加えて猿も類人猿も、群れの規範に従わない仲間を罰しようとする傾向がある。たとえ、それが最も力が強いオスであっても、自分勝手な振る舞いをすれば群れ全員の攻撃に遭う。
② ダーウィンは顔を赤らめるという現象が人間に普遍的に見られることから恥を感じることに道徳意識の芽生えを予測した。
③ 人間は類人猿との共通の祖先と別れてから、まず恥の意識を持つようになり、文化が発達してからそれぞれの社会規範による罪の意識を持つようになったと考えることができる。
④ 人間は類人猿の住めない過酷な環境に進出し、仲間内で噂話をしながら協力を強化してきた。言葉によってスキャンダルや恥ずべき行為をあげつらい、それを罰し、共同体から排除することによって、罪の意識を定着させてきた。
ただこれまで人間が暮らす社会は小さく閉じていたので、いまだに共同体の外に恥や罪の意識を拡大することができていない。 「他人にしてもらいたいと思うことをせよ」という黄金率は共同体の内部のみに通用する話だ。
⑤ 道徳の低下は現代の日本人が急速に孤独になったことを示している。それを少しでも埋め合わせようとして、人々は自分の行為をブログやFacebookに載せて報告する。しかし、ネット上の共同体には行為を抑制する力はないので、逸脱した行為を止めることも罰することもできない。
⑥ 文部科学省は道徳の時間を「特別な教科」として位置づけ、国の検定を受けた教科書の導入を検討している。しかし、道徳を教える前に、恥と罪を意識する信頼できる共同体づくりが先決なのではないだろうか。
以上が山際学長の論説の抜粋であるが、これを見て私が感じたことを書き留めることとする。
① 人間は両親によって生まれ育てられ、隣近所や幼稚園、小学校等における毎日の共同生活で、して良いこと悪いこと、他人が嫌がること喜ぶことなどを身に付けて行くものであり、それによって、平穏な社会が成り立っている。
② 人間は環境の影響を受けるもので、兄弟のある家庭と、一人っ子の場合とでは一般的に違った人格が形成される。私たちの幼児期、昭和初期は一家庭に子供は四~五人というのが普通で、私は六人兄弟の五番目であるが、十人兄弟などという家庭も少なく無かった。
兄弟のある家庭では喧嘩は毎日のようにあり、下の子は、衣服にしても教科書にしても、お下がりで我慢させられたことであった。
今の日本では生活も豊かになり、子供は一人または二人という家庭がほとんどで、兄弟喧嘩の経験も我慢させられる機会も少ないことと思われる。
③ 昔はなかったテレビが各家庭に行き渡り、夕食時もテレビを見ながらという家庭が多く、家族間の会話もろくろくないというのではあるまいか。
また今日では両親とも勤務時間も通勤時間も長く、夕食も各自別々で家庭団欒ということも珍しくなっているのではないか。
昭和初期の家庭ではテレビもない時代でもあり、父親の帰宅を待って一家揃って夕食をとり、その日の出来事など話が交わされたものである。またその会話の中で、物事の善し悪しなどを教えられたことであった。
山際学長の指摘するブログやFacebookの登場もさることながら、私は今日の道徳意識の低下は家庭団欒の消滅が最大の要因であると思っている。
④ 物を食べながら歩く、人前で大きな欠伸をするなどはみっともないと口喧しく躾けられたことであり、電車の中など人前で口紅を使うことなど、昔は考えられないことであったが、今ではすべて当たり前の風景になっている。
夫婦や恋人同士が手を繋いで歩くことも、大人が抱き合って親密の情を表すことも当世では違和感なく受け入れられているようだが、これらは戦後アメリカ文化の流入によってもたらされたもので、いわばグローバル化現象と言うべきかもしれないが、大正生まれの老骨にはまだ抵抗感を感じている。
⑤ 今日の多忙な社会では、昔のように一家団欒をとれるようにすることは難しいことではあろうが、せめて毎週土日ぐらいは出来るようにならないものか。
日本の将来を憂えるなら多少の犠牲は覚悟してでも実施すべきことと思われる。
まずは安倍総理をはじめ政財界の指導者がことの重要性と深刻な現状を認識してもらいたい。
尤も安倍総理にはお子さんがおられないということだから、実感は湧かないかも知れないがそこは菅官房長官なり、川畑文部科学大臣からでも、説明してもらったらどうだろう。
(平成二十七年二月二日)
ramtha / 2015年6月28日