今日は立春というのに終日冷え込み何をする気にもならず、ひたすらストーブにかじりついていた。
耳も遠くなり時代遅れの老骨は、黒柳徹子のような早口と、猛スピードで映像が変化する今日のテレビにはついていけない。今日はたまたま息子が置いていった本が机の上にあったので広げてみることにした。今売れっ子の池上彰の「イスラム世界」である。
この中で久方ぶりに「モーゼの十戒」に巡り会った。
その中に「汝殺す勿れ(なかれ)」という一条がある。
ユダヤ教はもとより、キリスト教もイスラム教も、この十戒は信者を戒める大事なものとして引き継がれている筈であるが、ユダヤ教のイスラエルはイスラム教のパレスチナと戦闘を繰り返し、「イスラム国」は周辺のシリア、イラク、ヨルダンなどイスラム諸国と戦い互いに殺戮を重ねている。どうしてだろう。
考えてみると今に始まったことではなく、 二千年もの昔、イエス・キリストはユダヤ教を批判した裏切り者として処刑されている。どうも「汝、殺す勿れ」というのは、ユダヤ教を信じる者同士の間の事で、その他の人間は含まれていないのではないかと思われる。
ユダヤ教徒がその信仰の柱とする十戒をたやすく破棄したとは思えないことからすると、一神教の信者にとって、異教徒は禽獣に等しく人間とは考えられていなかったのではなかろうか。今日の欧州のキリスト教社会では、政教分離とはなっているが、キリスト教徒の心の奥底には同じ思想が潜んでいて、時折、人種差別の形で噴出し、最近では欧州各国で極右勢力が頭を擡(もた)げているのではないか。
信仰は理屈ではないので、もともと排他性を伴うものであるが、一神教は格別排他性が強く、紛争の原因となることが過去の歴史が証明している。
かといって宗教のもたらす被害は、宗教を信じる人々には説得する術(すべ)もない。
健忘症の私は出典は何であったか定かではないが、確か孔子の教えに「自ら欲せざることを人に施すことなかれ」という格言があったと記憶している。子どもの時から「自分がしたくない事は他人にさせるな。自分がされたくない事は他人にするな」を教え込んで、世界中の人々が唯一この教えを守れるようになれば、あらゆる宗教も道徳も不必要であると私は考えている。
尤も孔子の母国中国でも、古来万民がこれに従った時があったとは聞かない。孔子のこの格言も当時の指導者と言われた士大夫(したいふ)の世界を前提としたものであったのかどうか、それはあの世に逝ったとき、孔子本人に聞いてみなければ分からない。
(平成二十七年二月四日)
ramtha / 2015年6月28日