今世界中から最も注目されている人物は、中国の最高指導者習近平であろう。前総書記胡錦濤の後任として政治の表舞台に登場して以来、汚職撲滅を旗印に対抗有力者を次々に摘発、瞬く間に独裁者としての権力を手中にした彼の動向は、中国はもとより、今後の世界情勢を占う上で目が離せない。
テレビや新聞で見る習近平は喜怒哀楽の表情に乏しくいつも同じ寡黙な顔つきである。短期間に政敵を一掃する辣腕政治家のイメージとは結びつかない。それだけに秘められたその人柄が興味をそそる。そこで「習近平の肖像」(催虎敏著 宇田川敬介訳)を購読してみた。
「習近平の肖像]は、その帯広告に「中国から届いた決死の手紙十三通、国務院官僚が告発した現代の黙示録」とあるように、訳者宇田川氏が習政権反対を公言する旧知の中国人官僚催虎敏氏に研究レポートの作成を依頼したもので、催氏をはじめ同氏の仲間である高級官僚である共産党員や弁護士、中国本土と香港のジャーナリストらにもそれぞれ得意分野で執筆分担したものを、最終的に催氏がまとめ、極秘に届けられたものということのようである。
したがって本書は、失脚した薄熙来に同情的(習政権に批判的)な人々によって書かれた内容であることを、文頭に断り書きされている。
何事も秘密のベールに覆われた中国共産党内部の事情に疎い老骨には判然としない部分も多々あるが、第一の手紙から第五の手紙で習近平の人柄と心情ならびにそれをもたらした彼の生い立ちの概略が窺われる。そこでその五つの手紙の中で、私の目に留まった事柄のいくつかを書き留めることとする。
<第一の手紙 尊敬する日本の友人たちへ>
この手紙は著者催氏直筆のものと思われる。ここでは胡錦濤政権末期の次期主席を巡る習近平・李克強・薄熙来の凄まじい権力闘争プロセスが描かれている。
軍と公安の指揮権をいち早く手にした習近平が李克強を人民解放軍による脅しで退け、李は習近平支持に回ったので習政権となっても国家主席の地位を与えられた。
薄熙来は終始習近平と争う姿勢を崩さなかったので、①イギリス人実業家殺人事件 ②側近だった王立軍亡命未遂事件 ③公金横領および公権力不正使用による不正蓄財と海外送金報道のでっち上げで失脚させられた。
そして習近平は、権力を独占し欲しいままに行使し、敵対する人々を次々に粛清する。これは国内の権力闘争での人間関係だけでなく、対外的な外交関係でも、彼は利己的に物事を決め、権力を振りかざして、武力を伴う威圧行動で解決する性格であると決めつけている。
<第二の手紙 薄熙来と習近平の違い>
薄熙来はイギリスや日本、アメリカなどに留学または歴訪して様々な事を吸収している。
薄熙来が最初に注目を浴びるようになったのは大連市長時代、同市を「北の香港」とするべく、海外投資を呼び込む窓口を設け、目覚ましく発展させたことにある。二〇〇七年重慶市の共産党書記になり、経済の立て直しに大成功、西部十二省のトップへと躍進させた。
習近平は薄熙来と同じように、二十五年間にわたり地方行政に携わってきたが、目立つ功績は残していない。
習近平は現在、薄熙来の起訴を手始めに周永康元政治局員、徐才厚元副主席をも「腐敗防止」のスローガンで摘発しているが、実は地方行政官時代、薄熙来が重慶市時代に行ったような大規模な腐敗撲滅運動を実施したことはない。彼が汚職追及を主張したのは、上海市書記時代、前任者の汚職による失脚に乗じて自分がポストを得たからであり、福建省寧徳市書記時代は、別の党幹部を標的にして追い落とすためであったなど、ここでは敏腕な薄熙来と対比して、習近平の凡庸ぶりを強調している。<第三の手紙 決定的だった幼少期>
習近平は若い頃「習仲勲の息子]として知られていた。
父習仲勲はもともと共産党の闘士であったが、些細なことで毛沢東の逆鱗に触れ、家族ともども「反党分子」のレッテルを貼られ、副総理を解任され、その後十六年に及ぶ拘禁生活を余儀なくされた。事件当時九歳だった習近平も「反党分子の子供」として、共産党高級幹部の住む中南海から追い出された。さらに十五歳のとき辺鄙な寒村に下放され、崖に彫られた洞窟式住居に住み、悲惨な生活を強いられたらしい。
毛沢東死後、父習仲勲の名誉回復、共産党に復帰するのに伴い、彼も許されることになったが、この期間の不遇な経験が人間不信、権力志向の彼を作ったのではないかと思われる。
<第四の手紙 エリート教育を受けられなかった影響>
習近平のことを「太子党」だと言う人がいる。
「太子党」とは党の高級幹部や財界要人らの子女を意味する言葉で、その数は約四千人という。太子党は上海幇(上海閥 )、団派(共産党青年団)と言われる派閥とともに中国政界の三大派閥の一つである。上海幇は上海という国際的な土地柄を背景に資源の貿易や三峡ダム建設によって形成された、エネルギー産業中心の経済的つながりを基盤とする巨大派閥である。経済的なつながりとは、許認可を媒介にした結びつきである。
一方団派の起源は、共青団が作られた毛沢東時代よりも歴史的にはずっと古く、科挙試験を中心にした「官吏」による派閥である。経済的利権を持たず、親から受け継いだ政治的特権もない中、自分の能力と才覚だけで権力を手にする人々である。
太子党であれば人柄は横柄でも、エリートにしか分からない国際情勢や経済の知識、国家全体を視野に収める政治的見識を持つことができたと考えられる。
最も良い例が薄熙来である。 「太子党」である事は、中国国内では「エリート」として、批判の対象となりやすい。薄熙来は優秀で数々の業績を残したのに、言われなき中傷を招き失脚させられている。
これに対して本来「太子党」としての教育を受けられるはずであった習近平は、父親の失脚で寒村に下放され、エリート教育を受けられず、義務教育すら中途半端であった。したがって名誉回復後、各地の地方行政官を務めたが大した業績を残すこともなかった。
習近平はこの手紙のような凡庸な行政官であったのか否かは分からないが、敢えて凡庸に振る舞うことで敵を作らず、将来に備えていたのではないかと私には思われるが、どうだろう。
<第五の手紙 習近平の個人心情>
習近平は九才から少年時代に「太子党」らしからぬ不遇な生活を送った。そのことが彼の基本的な性格を形作っており、それが彼の「強み」でもあり「弱点」ともなっている。
共産党の思想とその実現に誰よりも熱心だった父が毛沢東主席の一存で失脚させられたことで、習近平は中国共産党が「共産主義」というイデオロギーで国民を指導しているのではなく、「権力」が支配する政治組織であることを認識し、「共産党不信」となった。
また父の失脚により、今まで親しくしていた友人や周囲の人々が、掌を返すように態度を豹変したことで、誰一人信じることができない「人間不信」となった。
そこで習近平は「人々は共産主義によって動くのではなく、権力に従って動く」というシンプルな原理を体得した。
この経験から彼は「政治は結果を残す必要はない」と言う個人信条を持っている。どのような功績を残してもたった一つのことで足元をすくわれ、罪に陥れられたら何の意味もない。
それは、習近平が地方行政官時代にどのようなことをしてきたかでよく分かる。彼には「権力がなければ、何をしても意味がない」という思考がある。そこから「権力のない間は、権力者に従え」という考えになる。習近平は地方行政官の間、上層部から指示されたことだけ行い、場合によっては賄賂も使って役目をこなした。彼が優秀だったとすれば、そういう凡庸な自分によく耐え、「我慢し続けた」ことだろう。
そして、もう一つ力を入れたことが「権力のために他人を引き摺り下ろす」ことである。
これまで中国では、共産党常務委員会など指導層においては「人民のため」という建前を言い、肩を並べたもの同士、多少の腐敗には目をつぶり、お互い様で大きな問題にはしない、という暗黙の了解があった。しかし、習近平は、指導層の腐敗に厳しく対応することがあった。目上の人であっても同僚でも、師匠や朋友として付き合いながら、ある程度追求の材料が揃うと、相手を完全に陥れようとする。権力を使って弱点をつかみ、とことんまで追い込む。この手法は薄熙来に対して用いられた。毛沢東が習近平の父習仲勲を陥れた方法と同じである。「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間はなんと薄情なのか」という思いを抱いた後、自ら「信じられない薄情な」人物に変わったのだ。
この「習近平の肖像」は、なおこの後に八つの手紙が続くが、前述した内容と重複するものが多く、習近平の基本的な考え方は「人間不信]と「権力による支配]であることに尽きると思われるので省略した。
なお、習近平の経歴で、目を引くものとして二度の結婚があるので、それに触れておく。
習近平はかねて今の妻、彭麗媛(当時軍所属の人気歌手)に心を寄せていた。しかし父習仲勲は、社会的地位の低い芸能人である彭麗媛を嫌い、自分の信頼する部下であり、かつて駐英国大使を務めた柯華の娘で、海外滞在の経験のある柯玲玲の結婚を一方的に進めた。
父親としては、海外経験もなく外交手腕もおぼつかない息子の将来を考えてのことであっただろうが、習近平としては自分より才能豊かな妻は、プライドを傷つける目障りな存在に過ぎない。そんな夫婦が長続きするはずはなく離婚し、かねての愛人であった彭麗媛と再婚したということである。また再婚した彭麗媛の縁によって軍とのつながりもできたと言われている。
いずれにしても、習近平が絶大な権力を握っていることは間違い無く、反抗するものは軍を動員して弾圧するので、中国共産党の一党支配は、当分揺るぎないものと思われる。
しかし、汚職摘発の名目で、多くの政敵を陥れているので、その人々の恨みを買っていることも間違いない。
今後中国の政変は革命ではなく、テロによってもたらされるかもしれない。
(平成二十七年四月十日)
ramtha / 2015年7月14日