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「戦後の台湾」

台湾から日本へ帰化した拓殖大学日本文化研究客員教授・黄文雄氏の著書「それでもなぜ反日大国の中国人、韓国人は日本に憧れるのか」を読んだ。

主題の中国人・韓国人の国民性とその背景についての解説も甚だ面白かったが、第五章「そして私も日本人になった」に記されている台湾の戦後史は、不勉強な私には初めて教えられることの数々で、大変勉強させられた。その内の特に興味を惹かれたことについて書き留めることにした。

① 終戦後GHQは日本列島を占領、朝鮮半島は米ソが南北分割占領、マッカーサー連合軍総司令官の第一号命令で、中国国民党軍が台湾に進駐した。国民党軍は九州にも進駐したかったが、アメリカに拒まれた。日本人にとっては、それがいかに幸運だったか、台湾人のこの一言だけで分かる。
「アメリカは日本に原爆を二つ落としたが、台湾には蒋介石を落とした」
戦後台湾史を知る人なら、間違いなく日本を羨ましがるだろう。

② 中国人の統治法は「有力者は皆殺し、愚民のみ残す」の一言に尽きる。終戦直前、台湾のラジオ放送から人物チェックする中国人工作員がいた。中国は、大正・昭和以降の台湾各界で活動している有力者五千人をピックアップして処分すれば台湾の統治は可能だと信じていた。
その陰には、野蛮が文明を征服するという古代中国からの歴史の掟があった。当時の台湾人一人当たりの平均電力使用量は中国人の二百倍以上もあった。全く文明レベルが違っていた。

③ 最も代表的な2・28虐殺では、台湾の知識人のうち約三万人が消された。その後に続くいわゆる「白色テロ」で、十万人以上の台湾人が荒唐無稽な罪で銃殺、島流しまた牢屋行きにされた。そして人類史上最長の三十八年間の戒厳令の中で苦悶の時代が続いた。

④ 私が小中学生時代、街では「密告しないと同罪」などと呼びかけながら、歌を歌い、練り歩きをしながら、人々が狩り出されていた。奨励制度が設けられ、反政府の疑惑があると密告された人の財産は、四十%が密告者のものとなって、密告業者が跋扈する時代が長く続いた。

⑤ 人間社会が、より自由な、より豊かなところへ流れて行くのは、ごく自然な摂理である。私は留学生という名義で台湾から離れた。同時代に同名義で国を出た人は少ないが、商売目的の人も多かった。しかし、誰でも簡単に台湾から出られるものでは無い。
少なくとも所轄の警察担当に賄賂がないと、許可のハンコを押してくれない。あの時代は、警察やその家族は、市場での買い物や店での食事がタダという時代でもあった。

以上、私の知らなかった台湾の戦後史の内から特に目にとまったものについて抜粋転記してみた。

戦前日本の支配下に置かれ、終戦によって解放されたという点においては、韓国と台湾は同じ立場にありながら、日本に対する感情には、いささか違いがあるように感じていた。しかしその要因は何だろうと思っていたが、今回の作業する中で、おぼろげながらわかるような気がしてきた。日本に帰化して活躍している金美麗女子も、そうした戦後の台湾から逃れてきた一人であったのではなかろうか。

(平成二十七年五月二十三日)

ramtha / 2015年10月9日