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「安川電機と安川・松本家の方々」

昨日の毎日新聞では、六月一日「ロボット村」を開設した安川電機百年の歴史を紹介している。私は昭和初期、安川・松本財閥設立の北九州戸畑の私立明治尋常小学校で学び、同級生には安川一族の子女もいたので、安川電機には今も格別の親近感がある。といっても子供の頃のことで、最近ロボットメーカーとしてしばしば耳にする以外、同社の内容など何も知らなかった。そこで遠からず冥土で再会する同級生との話題のために記事の一部を転記しておくことにする。

今から100年前、炭坑用モーターを作る会社が福岡県黒崎町(現北九州市八幡西区)に誕生した。現在の産業用ロボットを製造大手、安川電機だ。当初は失敗の連続だったが、やがて「モーターの安川」として広く知られる存在となった。創立者の安川敬一郎、第五郎親子は、官営八幡製鉄所の誘致や、専門学校での人材育成にも取り組み「ものつくりの街・北九州」が生まれる原動力となった。同社は記念事業として本社・工場敷地を「ロボット村」と名づけて再整備し、1日に式典を開いて、完成を祝った。

なお記事によれば、最新のロボット技術を紹介する見学施設「安川電機みらい館」には1977年(昭和52年)に完成したロボット一号機「モートマン-L10」や最先端のロボットなど約五十点が展示されている。

さらに小型産業用ロボットがミニカーの組み立てを実演し、見学者がロボットを操作できるコーナーもあるという。また「安川電機のあゆみ」を次のように掲げている。

1915年 安川敬一郎が五男・第五郎らと安川電機製作所を創立
1917年 誘導電動機を初受注
1933年 八幡製鉄所(現新日鉄住金)に高炉電機品を納入
1958年 従来比100倍の応答性があるミナーシャモーターを発明
1970年 東京で無人省力展を開催
1974年 国内初の全電気式産業ロボット「モートマン-L10」を発売
1990年 ロボット生産拠点モートマンセンター開設
1991年 安川電機に社名変更
2005年 双手型と七軸のロボットを製品化
2010年 太陽光風力発電システム市場参入
2012年 ACサーボドライブ出荷1,000万台突破
2014年 インバーター出荷2,000万台突破、ロボット出荷30万台突破
2015年 創立100年を迎え、ロボット村「安川みらい館」がオープン

前述したように私は明治小学校で安川・松本家の少なからぬ子弟と学校生活を共にしたので、安川家の家風についても、いささか接する機会に恵まれた。

少年時代の経験ではあるが、その記憶によれば、安川家の子弟はどなたも学業優秀で、人柄もみんなの模範となるような方ばかりであった。

男性は一高・東大または慶応に進学、女性は西南女学院に入学されていた。
家庭でも独立精神を躾けられていたのか、安川家傘下の企業に就職された方は稀で、外交官や学者など、それぞれ別の世界に進まれた方が多かったようである。

また政治家となられたのは、社会党代議士として戦後活躍された松本七郎氏お一人ではなかったかと思う。

私は昭和十年明治小学校から旧制小倉中学(現小倉高校)へ進学した。小倉中学では一学期の成績通知表は父兄会の日に担任の先生から父兄に渡され、二学期は出身小学校へ送られ、小学校で先生から手渡されることとなっていた。三学期は終業式後、教室で担任の先生から本人に渡されていた。

あれは昭和十二年、三年生の二学期のことであったと記憶しているが、明治小学校出身の小倉中学生を前に、明治小学校の校長先生の訓話があった。

その年の七月に盧溝橋事件が勃発、その後の日中戦争へと進展していく時代である。校長先生の講話も戦時の心構えなどがあったようだが、その席で先生の日本軍の正当性説に異説を唱える先輩がいた。当時の新聞などによる風説で、日本軍の正義を一途に信じていた私はびっくりして発言者は誰かと振り向いたら、安川家の御曹司ではないか。

さらに彼の発言を聞くと「外国の領土内での戦争であり、関東軍の独断的工作が原因という説もあり、簡単に日本軍に正当性ありと断定するのは疑問がある」という。その後校長先生がどう応答されたか、どういう結末になったかなどは全く忘れてしまったが、この時以来世の中の出来事には、私たち庶民の知らざる真相が隠されていることもあると、目を覚まされたことであった。

安川家は元黒田藩士で、筑豊炭田の石炭採掘の支配方をしていたらしい。その経験から、明治維新後、明治鉱業を設立、石炭採掘をしていたもので、私が昭和二十四年吉隈炭坑に勤務していた時、近くの平山炭坑や田川郡の赤池炭鉱など明治鉱業傘下の炭鉱が存在していた。

また紡績業にも手を広げ、明治紡績を設立経営していた。本社はいずれも戸畑に置いていたのではなかろうか。明治小学校の同級生には、明治鉱業や明治紡績の本社勤務職員の子弟が少なからずいた。

また先の紹介記事では、単に「専門学校での人材育成などにも取り組み…」と記されているが、その真相は、今日の九州工業大学の前身である四年制の明治専門学校(通称明専)を設立し、国に寄付されたことである。

なお、当時の国立の工業専門学校は三年制であったが、大学に準ずる、より高い教育をするために、敢えて修学年数を四年としたと聞いている。

明専は明治小学校と隣接してあり、周りには教官官舎や学生寮や学生の娯楽施設としての学生クラブまで備えられていた。

小学校の同級生には明専の教授の子弟も何人かいたので、その官舎にもしばしば遊びに行ったことがある。芝生に覆われた敷地は二百坪程もあったのではないか、広々としたその邸宅は、子ども心にも羨ましかった事は、八十年を経た今も記憶している。

なお付言すれば、明治小学校も戦後、安川家の手を離れて、高校まで備えた学校法人明治学園に変身している。

(平成二十七年六月三日)

ramtha / 2015年11月29日