奈良県明日香村のキトラ古墳に壁画が書かれていることは聞いていたが、見学した事は無い。今朝の毎日新聞では、石室天井に描かれていた天文図について、次のように報じている。
文化庁は十五日、星の位置関係を調べた結果、紀元前一世紀半ばと、紀元後四世紀に中国で観測された星が共に描かれている可能性があると発表した。謎とされていたキトラ天文図の由来に迫る成果といえそうだ。
キトラ天文図の星の配置は独特で、原図に該当する星図は見当たらないとされる。今回の研究は、文化庁と奈良文化財研究所、中村士・元帝京平成大学教授(天文学史)、相馬充・国立天文台助教(位置天文学)らが共同で行った。
星の位置は年々変化しており、中村元教授は天文図に描かれた二十個以上の星宿(星座)の位置から年代を推測。その結果が、紀元前一世紀半ば頃の観測と判断した。紀元前の星の位置を記録したとされる古代中国の「石氏星経」とも整合したという
広辞苑によれば、天文学は自然科学では最も早く古代から発達した学問と言われているが、 二千年もの昔から星座を観測し記録していたとは驚きである。
しかし、考えてみれば、焚き火以外に照明手段のなかった大昔は、眠れぬ夜は、星を見上げるしか気を紛らわせることもなかっただろうし、漆黒の夜空に光る無数の星は、さぞかし美しい眺めであり、人々を空想の世界に誘(いざな)ったことであろう。
余談になるが、旧制福岡高校での親友に岡崎敬君がいた。彼は小学校の頃から考古学に興味を持ち、京都帝大の考古学科で学び、九州大学教授を退官するまで、終身考古学研究に身を捧げた。彼の持論は「学問にはいろいろな学問があるが、ほとんどが何らかの利益を目的とする手段であり、純粋な学問は天文学と考古学である。」と言っていた。
確か昭和三十六年、飯塚市立岩の立岩古墳の発掘調査に来たとき我が家に泊まり、旧交を温めたことがあったが、その身なりなど構わない純粋な人柄に、家内が感動して、今でも「岡崎さんは本当の学者でしたね」と繰り返し話している。
今回のキトラ古墳の新しい研究成果について、彼の見解を聞きたい思いがするが、惜しむらくは、彼は六十代後半で冥土へ旅立ってもういない。俗界に住む私には勿体ないような友人であったが、もう遠からず再会できるだろう。
(平成二十七年七月十六日)
ramtha / 2016年1月7日