今朝の毎日新聞の「余録」は、安倍総理の戦後七十年談話を取り上げている。面白かったので全文書きとめておく。
「歌読みは下手(へた)こそよけれ あめつちの動きだしてはたまるものかは」は江戸狂歌である。「古今和歌集」の仮名序に和歌は天地(あめつち)をも動かすとあるのを皮肉ったのである。言葉には実際に物事を動かす霊力があるというのが言霊(ことだま)信仰である。
その言霊信仰には「言挙げ(ことあげ)という行為がある。自分の心をはっきり口に出して言うことで、もしそこに心中の慢心が現れれば罰が下る。ヤマトタケルは伊吹山の神の化身に「殺す」と言挙げして、身を滅ぼすことになる。
言挙げせぬ国・・あれこれ言い争わない国というのは日本の美称だが、今日の首相がそれでは務まらないのは分かる。しかし、誰も求めていなかったのに戦後七十年の談話を言挙げするというので、では慢心はないか、居丈高(いたけだか)はないか、と世界が見守る羽目になった。
思えば首相・・一国の指導者は恐ろしい仕事である。過去にはその判断の誤り一つで三百万の自国民とその何倍もの他国民が命を落とした。今日も指導者の不用意な一言がおびただしい数の内外の人々の暮らしや国の繁栄、安全を左右することがあり得なくは無い。
なのにあえて世界注視の中で歴史認識が試される談話を発表しようという安倍晋三首相だ。ただ有識者懇談会はすでに過去の侵略と植民地支配を認める報告を渡している。また歴代首相談話の基本的な立場は引き継ぐともいう。まさかそれらを覆す言挙げはあり得ない。
未来志向を掲げる戦後七十年談話ならば、今度こそ近隣諸国民の心に届く和解と構想を聞きたい。さもなければ何事も動かさない「下手」の方がましと言われても仕方ない首相の言挙げだ。
これを読んで昔麻生本社に勤務していたとき、熊谷部長から「労組幹部との折衝では、相手に期待を持たさんよう気をつけよ」と教えられたことが思い出された。
熊谷さんは部長会議で社長から質問されたことについても簡潔に必要な答弁をするだけで、自分の意見を述べる事はなかった。私たち部下から団体交渉の成り行きについての予測を伺っても、「君たちはどうかね」と逆に質問されて、ご自分の見解を明かす事はなかった。後になって、あれが熊谷さんの巧みな処世術であったと了解したことである。
よろず意見や予測を口外すると、それがその後の自分の行動を束縛することになる。特に交渉事では、不要な発言が相手に期待感を抱かせる言質となることが少なくない。できるだけ言質を取られないようにすることが、交渉の要諦である事を熊谷さんの日常から教えられたが、愚かな私はしばしばその教えを失念して、失敗を繰り返したことであった。
安倍総理は、議会で野党の質疑には答弁せざるを得ない立場であり、その答弁は即時世界中を駆け巡ることになる。気の休まる時も無いことだろうと思うが、一国の最高責任者である限りは、自縄自縛となる発言をしないよう心がけてもらいたい。
(平成二十七年八月八日)
ramtha / 2016年1月11日