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「戦後七十年の総括」

安倍総理が戦後七十年談話を発表すると宣言して以来、その内容がどのようになるのか、内外の関心も集まっている。それを意識しての企画と思われるが、毎日新聞では、今日の紙面から「戦後七十年を思う」と題して、各界の有識者による戦後七十年の総括とも言うべき見解をシリーズとして掲載することにしたようである。

その第一回として元総理中曽根康弘氏(九七歳)の分析と提言が掲載されている。これが現在の日本人を代表する一つの見解と言うべきものと思われたので、後日のため全文を転記する。

戦後七十年に当たり、戦没者の御霊に謹んで哀悼の意を捧げ、改めて平和の祈りを深くする。
今日のわが国の発展と繁栄は、戦禍に犠牲となった同胞の鎮魂を胸に、日本国民が一丸となって懸命に復興に取り組んできた努力の賜物に他ならない。またその道程は、平和と自由、民主主義を希求し、幾多の困難を乗り越えながら文化国家建設に邁進してきた歩みでもある。こうした日本を世界も高く評価する一方で、我々も誇りとすべきであると思う。

歴史の俯瞰において、あの戦争をどう捉えるべきなのか。私自身は「東京裁判史観」を支持するものでは無い。あの第二次大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれるものは、複合的で、対米英、対中国、対アジアそれぞれが違った、一面的解釈を許さぬ複雑な要素を持つ。

日本は明治維新によって世界史に登場して以後、欧米列強の帝国主義的軋轢の中で、自らも外に活路を見出そうと乗り出していった。それは欧米諸国との資源の争奪、国家、民族のあり方をめぐる争いであり、その帰結が第二次世界大戦でもあった。

しかし、そうした過程で1915年の「対華二一ヵ条要求」以降は、中国に対する侵略的要素が非常に強くなり、日本軍による中国国内での事変の拡大は、中国の反発を招き、中国国民の感情を大いに傷つけたと言わざるを得ない。また、大東亜共栄圏の名の下に進出した東南アジアも、住民からすれば土足で上がり込まれたというものに他ならず、まぎれもない侵略行為であった。

いかなる理由があろうとも、戦争の結果として300万人以上の国民が犠牲となったという厳然たる事実を消し去る事はできない。しかも本来日本人自らの責任において決着をつけるべきであった当時の指導者の戦争責任を、東京裁判という他者の裁きによって決せられてしまった事は、東西冷戦が始まったとは言え、日本社会としての戦争の総括を中途半端にしてしまった。

それが、その後、長く日本人の意識の中に晴れぬ曇天が残る結果ともなった。やはり、先の戦争はやるべからざる戦争であり、避けるべき戦争であったと思う。

そうした過去の自省を含め、この七十年という節目は、日本自らが歩んできた歴史をよく検証、点検しながら、新しい時代を展望し、未来を模索する上で重要な通過点でもある。

戦後の繁栄の中で、手つかずであったり、中途半端なままに来てしまった課題や問題を今一度点検し、この国の将来に向けて、どう整理しながら再構築して行くべきなのか、我々の熟慮とともに果敢な取り組みが求められている時でもある。憲法改正や教育改革、安全保障と外交、行財政改革などは、この国の根幹的な課題でありながら、国際情勢や国内環境が許さなかったり、あるいは国民の理解が得られずに、不十分のままに今日まで来てしまったことも事実である。

今後の国のあり方を考えれば、決してないがしろにできないことであり、十分な検討が求められる。また、そうした歴史の検証の上に、日本の進むべき未来を切り開いていかねばならない。

以上が中曽根氏の見解の全貌であるが、戦前、戦後の日本の足どりの評価について同じ時代を共に歩いてきた私は全く同感するところである。
またいわゆるカタカナ語を一言も使わない文章は、これまた同世代の庶民には最も分かりやすい文体で、読後の爽快感は格別なものがあった。

敢えて蛇足を加えるとすれば、日露戦争以降以後の日本を取り巻く国際環境は、白人至上主義を心の奥底に抱く欧米諸国の圧力の下に、自国の道を切り開き進んでいかねばならなかったことにあったということではないか。
中曽根氏は元総理という立場から、その点には触れられなかったのではないかと私は憶測している。

(平成二十七年八月十一日)

ramtha / 2016年1月14日