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「密約政治」

昨日読んだ月刊雑誌SAPIO九月号に、今一つ「基地問題がこじれた元凶がここにある」と題する元外務省国際情報局長孫崎享氏の論説が掲載されていた。私の知らなかった政治の真相を教えられることが多かったので、これもここに転記する。

1965年8月19日、戦後初めて総理大臣として那覇空港に降り立った佐藤栄作首相(当時)は、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとっての戦後は終わっていない」と宣言した。政治家としての強い決意が感じ取れるが、返還が実現したのは72年で、それまで七年の歳月を要した。

沖縄返還交渉において佐藤首相とニクソン大統領の間に密約があった事は、広く知られている。
アメリカが要求したのは、第一に、緊急事態においては在日米軍基地への核兵器の再持ち込みを認めること。
第二には、沖縄の軍用地を返還する際、原状回復にかかる費用を日本が肩代わりすること。表向きアメリカ側が負担することになっていたが、こっそり日本が肩代わりするという意味だ。

沖縄返還に関してはこの二つばかりが注目されるが、あまり知られていない第三の密約がある。「繊維密約」だ。
当時アメリカでは、日本製の安価な繊維製品の輸入が激増し、繊維業界が大打撃を受けていた。68年の大統領選で、ニクソン氏は繊維製品の輸入規制を公約に掲げて勝利し、次期大統領選でも繊維業が盛んな南部の票が是が非でも欲しかったので、彼にとっては繊維問題は極めて重要な政治課題だった。

69年11月に沖縄返還をテーマに開かれた日米首脳会談の二日目、佐藤首相とニクソン大統領の間で交わされた密約文書には、概要、こう記されていた。

(適用範囲全ての毛及び化合繊の繊維製品
期間1970年1月1日から始まる5年間
基本的上限1969年6月30日をもって終わる過去十二ヶ月の貿易の水準
右上限の増加量 化学製品1969年より始めて毎年5%
毛製品1969年より初めて毎年1%)

要するにアメリカへの輸出量が大幅に増えないよう、上限を定めたのだ。
ところが、佐藤首相は三つの密約のうち、この繊維に関する約束を反故(ほご)にした。

繊維の輸出制限問題で一向に進展がないのを見て、しびれを切らしたアメリカ側は、70年6月に渡米した当時の宮沢喜一通産相に詰め寄った。「聞き書 宮沢喜一回顧録」によれば、宮沢通産相は渡米前からアメリカ側に「総理大臣のところに一枚の紙(密約文書)があるはずだから見てきてくれ」と言われていた。宮沢通産相は佐藤首相に確認したが「そんなものはない」と一蹴された。

渡米後、スタンズ商務長官から「ここに一枚の紙がある」「日米で合意がある」と迫られたが、宮川氏は「知らない」「そんな紙は見ない」と繰り返した。
密約は、表に出せないから密約である。「そんなものはない」と言えばシラを切り通せるものだ。

この佐藤首相の対応に、ニクソン大統領は激怒した。

密約外交が招いた国民の不信

三つの密約は、当時の国際情勢を考えれば、必ずしも国民に隠さなければならないようなものではなかった。
米ソ対立が深刻化する一方で、64年には中国が核実験に成功していた。ベトナム戦争はまだ終結しておらず、沖縄の基地からは毎日のようにB52が飛び立っていた。いざというときには核を持ち込むと言う要求は、アメリカの論理からすれば当然のことだった。そもそも核持ち込みを日本側から確認する術はなかった。

現状回復費用の肩代わりも大した額ではなく、きちんと国民に説明すれば、了承得られたはずである。

繊維問題は、後に通産相となった田中角栄氏が、日本の繊維業界に損失補填を約束して、あっさりと輸出制限を実現した。佐藤首相に田中角栄氏ほどの政治的腕力がなかったとしても「沖縄返還のために必要だ」と国民を説得することができないことではなかったはずだ。

なぜニクソン大統領との約束を秘密にして、国民にオープンにしなかったかと言うと、佐藤首相が「全く譲歩せずに沖縄返還を勝ち取った」と言うポーズをとりたかったと考えるほかない。政治家が密約を結ぶのは自らのメンツを保とうとするからだが、必ずそのツケは回ってくる。

ニクソン大統領を激怒させた日本は、数々の報復行為を受けた。中国に関する政策は日米間で事前協議するとの約束があったにも関わらず、71年7月、ニクソン大統領は事前通告なしに訪中計画を発表し、日本外務省に衝撃を与えた。さらに同年8月15日、すなわち終戦記念日をわざわざ選んで、ドルと金の兌換停止を発表。同年12月には1ドルが360円から308円に急落し、日本の繊維製品の輸出にブレーキがかかった。
この二つのニクソンショックの背景には、密約を反故にされたアメリカ側の怒りがあったのだ。

さらに、後に密約の存在が明るみに出たことで、国民の日米外交に対する不信感を増幅させた。アメリカにいい顔する一方で、国民には知らせずに秘密裏に物事を進め、うやむやのまま既成事実化していくと言う政治手法は、今や日本外交の伝統的政治手法になっている。

公開で議論してもしなくても「譲歩する」と言う結果は同じかもしれないが、密約外交で国民的議論を避け続けてきたことで、政治・外交に対する国民の不信感は極限まで増大している。オープンな議論を積み重ねていないから、現在の沖縄の基地問題でも、例えば、親米派は「沖縄を守るためには米軍が必要」と言い、リベラル派は「オスプレイは危険だ」と主張し、かみ合わないまま平行線が続いている。これも密約外交のツケであると言える。

もう一点指摘しておかなければならないのは、今アメリカとの「密約」の形が変わってきていることだ。安保法制の国会審議が始まる前の今年四月、安倍内閣は日米安全保障協議委員会(2+2)で、防衛ガイドラインに合意し、自衛隊の後方支援に地理的制約をなくすことを約束した。そしてオバマ大統領に「今国会での成立」まで宣言した。公開で密約しているようなものだ。

佐藤首相の三つの密約と同様、仮に安保法制成立と言う「結論」は変わらなくとも、国会で公式な議論をする前にアメリカに約束することは、議会制民主主義のルールから逸脱している。だから国民から「なぜそんなに急ぐのか」と言う不信の声が高まってしまったのではないか。
このまま国民的議論を避けていつの間にかアメリカと約束するような政治・外交が続けば、ますます国民の不信感が高まってしまうことが危惧される。

ところで角川学芸出版発行の、日本史辞典第六版(2008年発行)によれば、佐藤首相は、1969年11月の佐藤・ニクソン会談より前の1967年12月、第五七臨時国会で「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」と言ういわゆる非核三原則を最初に発言している。

これを正しいとすれば、佐藤首相は佐藤・ニクソン会談時に、核の持ち込みを受け入れるとすれば、かねての発言を取り消すか、密約とせざるを得なかったのではないかと思われる。この点についてこの筆者孫崎氏は、本文の中で触れていないがどうしてだろう。
このことについて孫崎氏はどう認識していたかわからない。

もっとも、非核三原則に抵触する事項は密約としなければならなかったとしても、沖縄返還時の現状回復費用と繊維輸出に関する事項は孫崎氏の指摘するように、密約とするまでの事はなかったかとも思われる。

いずれにしても、密約のツケが後に回ってくる事は孫崎氏の言うように確かなことで、将来に禍根を残すような密約は極力避けることが望ましい。ましてや、国会の審議の前にアメリカと約束する「公開の密約」などはもってのほかである。

こんな「公開の密約」などがまかり通るのは、一強多弱の与党勢力の上に胡座(あぐら)をかいた安倍政権の奢りと言わねばならない。あまり横暴な政治手法には、いずれ選挙民の鉄槌が下ることを自民党は心してもらいたい。

(平成二十七年八月十五日)

ramtha / 2016年1月20日