私が明治小学校に入学したのは、昭和四年四月四日であった。半世紀以上も経て黄色に変色しているものの、その日の記念写真が古ぼけたアルバムに今も残っている。
その最前列の中程に、毬栗頭のいかにもやんちゃな顔つきの男の子が写っている。腰掛けが高かったのか、下駄を履いた両脚が地面に届いていない。永島明夫君である。
明治小学校は安川・松本財閥による私立の小学校で、生徒の多くは明治鉱業、明治紡績など傘下企業の本社に勤務する社員の子弟であったが、彼の父親はたしか明治専門学校に奉職するボイラーマンであった。
当時はどこの家庭でも子どもが多く、四、五人兄弟というのはザラだったが、貧乏人の子だくさん、彼の兄弟も五、六人はいたように思う。
明治小学校は一般の公立の学校に比べ、生徒の家庭環境が恵まれていたが、その中では彼は最も恵まれていない方であった。学業成績は芳しくも無く体も小柄だったが腕力は強く、勝ち抜き相撲などでは、自分より大きい子を何人も投げ飛ばし、ずいぶん勝ち進んだりしていたことを思い出す。また、五年生からは剣道の選手となり、全国大会にも出場したこともあった。
それに比べ私は病気がちで、スポーツは全く不得手であったし、住居もお互いに離れていたので、特に記憶に残るような彼との交流は無かった。六年間クラスを共にした彼についての印象としては、算術の問題が解けず黒板の前で立ち往生し、頭を掻いて席に戻る姿や、運動会の川中島合戦で奮戦している姿が強く残っているくらいである。
小学校卒業の時、クラスの殆どが中学や女学校へ進学する中で、彼は唯一人高等小学校へ進んだ。高等科を了えてからはすぐ就職したようだが、どんな仕事をしていたのか知らない。毎年一回先生を囲んでのクラス会には必ず出席していたが、関心の無かった私は、彼が何をしているのか聞いてもみなかった。
昭和十四年、私は福岡高校へ進学したが、その頃彼が少年航空兵を志願して海軍に入隊したという噂を耳にした。その後太平洋戦争の時代を挟んで、二十年以上も彼と会う機会もなく、また思い出すこともなく時は流れた。
あれは何時のことだったろうか、同級生の林一朗君(九州歯科大教授)からの誘いで、久方ぶりのクラス会に出席することとなった。指定された列車で戸畑駅に着き、改札口を出ると「佐藤、よう来たな」と二人の男に迎えられた。
二十数年ぶりの顔は誰が誰だか分からない。同級生の誰かであるには違いないから「やあ」と返辞はしたものの後が続かない。しかしよく見ると、一人は自衛隊の将校になっている重松君のようだ。でも小学校の頃はクラスで一、二番の大男だった筈の彼が、今では私より背が低いではないか。一瞬戸惑ったものの、鰓の張ったその面差しは昔のままだ。
「重松やないか」というと「よう分かったのう」と微笑んだ。
だが、いま一人の白髪混じりの坊主頭は誰だか全く分からない。
「俺が分かるか。分からんじゃろう。」とその男は私を見てニヤニヤ笑っている。
すると横から重松君が「永島よ。分からんじゃったろう。こいつはえろう老け込んじょるもんのお。」と口を添えてくれた。
そう言われれば昔の面影が窺われなくはない。しかし彼の老成ぶりは、これが私と同年とはとても思われぬ程であった。
その日は六年間ずっと担任して頂いた藤井先生を囲んで、七、八人の同級生が集まったが、宴席に入ると、先生の両脇の席には林君や私に座るようにと永島君が勧める。
私が遠慮して「永島、お前が先生の横に座れよ。」と言うと「そこは、佐藤のような成績の良かった者が座らにゃ。俺なんか何時も先生に叱られたり、立たされたりしちょったもんな。今でも先生の傍は恐か。この辺りでちょうど良か。おまけに、ここは先生の顔がよう見えるけん。」と言って先生の真正面の末席に座る。
今更何十年も前の成績なんぞと思ったことであったが、彼はその席を離れなかった。後で気づいてみると、彼はその席で仲居さんへの指示など、会合の進行に気を配っていたのであった。
何年かぶりの愉快なクラス会が散会したあと、我々が二次会の算段をしているとき、すっかり年をとられた先生の肩を抱えるようにして先生の家まで送って言ったのは、彼、永島君であった。
それから二年ばかりして、今度は私が世話人となって福岡でクラス会を催すこととなった。私は当時福岡市城内町に住んでいた永島君に手助けして貰おうと彼の家を訪ねてみた。
彼はその頃市営住宅の一画で、紙箱製造の仕事をしていた。初めて彼の家を訪ねたら、仕事中の彼は、二、三人いる従業員に仕事の指示をして仕事場から抜け出してきた。
忙しい仕事の邪魔になったのではないかと気になったが、「やあ、よう来てくれたな。まあ上がってくれや。」と彼は上機嫌で二階の座敷に案内する。そしてまだ昼日中というのに、奥さんにビールを運ばせ歓待してくれる。さらに子どもまで呼び集め、「佐藤さんは東大出の秀才ばい。俺が何時も父ちゃんは立派な友達の居るちゅうて自慢するのを聞いちょろうが、この人のこったい。」と私を紹介する。
こちらは穴に入りたいような思いでいるが、彼は手放しで私を持ち上げる。
「あんたは憶えとらんじゃろうが、俺は勉強ができんで、何時も泣こうごたった。宿題も忘れたわけじゃなかばって、出来んもんでしとらん。よう先生に叱られた。宿題の分からん時は何時もあんたに習いよったことは忘れられん。他の者は永島の出来ん坊主ちゅうて俺ば馬鹿にしちょったけんど、あんたは優しう教えてくれよったもんな。ばってん、あんたはよう病気で長休みしよったけん、その時は習う人の居らんで困ったもんじゃった。今日はあの頃のお礼ちゅうわけじゃなかばって、ゆっくり呑んじゃんしゃい。」と言い、しきりにビールをついてくれる。
言われてみると、そうそう、放課後皆が帰ってしまった後の教室で、彼に算術を教えたこともあった。先生が廊下の窓越しに「あまり遅くならないうちに帰りなさい。」と注意され、頭を上げたら運動場の隅のポプラの木が長い影を引いていたのを思い出した。
今度のクラス会には、出来るだけ多くのクラスメイトに集まって貰おうという事で、名簿を頼りに勧誘していたが、その中で今まで消息が知れなかったE君が博多にいることが分かり、永島君と二人で箱崎のE君を訪ねることとなった。
E君というのは、小学校の頃、父親が明治専門学校の教授で教官官舎に住んでいた。その家には少年少女文学全集など沢山な本が揃えられていたので、その本を読ませて貰いたくて、しばしば遊びに行った思い出がある。女学校教員の貧しいわが家に比べ、豊かで幸せそうなその暮らしぶりを、子ども心に羨ましく思ったりしたものである。
ところが彼が中学三年生の時、病気でもないのに長期欠席し、その挙げ句退学してしまった。勉強も良く出来、ユーモアもある明るく温厚な彼がどうしてと不思議でならなかったが、後日耳にしたところでは、両親が離婚し、彼は母親、妹と東京へ行ったということであった。
その後私が大学在学中に一度彼と会ったことがある。その時彼は中央大学の学生となっていたが、昔の明るさは影を潜め、すっかり人変わりし、昔の級友ともあまり交際したくない心境のように見受けられた。その時の事を思い浮かべ、彼を訪ねて行くことはためらいがあったが、永島君の「E君が居ることがわかって、声を掛けんということはなか。」という言葉に引き摺られて足を運んだ。
E君の住まいは、箱崎の九大前の通りから東へ小路を入ったところにあった。小さな二階屋の下が医療器具販売の看板を揚げた事務所で、二階が住居になっていた。私達が訪ねて行った日は日曜日で、事務所は閉ざされていたが、脇の外階段を上がり住まいの方を訪ねると、E君は一人居室で寝ていたようである。熱でも出ていたのか、今まで額に当てていたと思われる濡れたタオルを手に提げて、我々を迎い入れてくれた。
看病人がいないのでは、さぞかし不便だろう。奥さんはと尋ねると、ずいぶん前に別れ、その後はずっと一人暮らしと言う。調度品も少ないガランとした室内を見渡していると、心なしか隙間風が吹き抜けて行く感じである。
クラス会への出席を促すが「今はまだ先生にも友達にも会いたくない。いま少し事業が軌道に乗り、人前に出られるようになったら・・・・」と言う。
彼の家庭や仕事の内情は分からぬものの、その場の状況と彼の表情から、私には彼の気持ちが分かるような気がした。すると横から永島君がこう言った。
「君の暮らしがどんな状況にあるのか知らんが、クラス会は世の中の成功者が自分の成功をひけらかす為に出て来るところじゃないぜ。俺たちが卒業する時、先生がクラス会の名前を<古巣>とつけて下さったのを憶えとるじゃろう。そしてお前達がこれから世の中に出ていったら、いろんな事に出遭うだろう。辛いことも悲しいこともあるだろう。そんな時には、何時でもこの古巣に帰っておいでと言われたやないか。成功者は古巣から飛び出して広い空を羽ばたいとりゃええ。古巣は傷ついた者が羽を休めに帰って来るところや。病む者、失意の者が、お互いを慰め、励ますのがクラス会や。俺はそう思うとる。クラス会に出るのに格好つけることなんかいらん。是非出て来いや。」としきりに勧めたが、E君からは、ついにはっきりした返事を聞くことが出来なかった。
その帰途、私は永島君に「お前、ええこと言うたなあ。あんな事何処で勉強したんや。」と感心して尋ねたら、彼は初めて私の知らなかった身の上話をしてくれた。
十六才で少年航空兵を志願した彼は、やがて海軍戦闘機に搭乗するようになり、幾多の空中戦で数々の武勲を立てた。しかし硫黄島沖の空中戦で敵弾を受け、搭乗機は炎上、彼はパラシュートで脱出、九死に一生を得たが、その時の負傷で右腕を痛めてしまった。野戦病院で入院治療したが、右腕は障害を残したまま終戦となった。
戦後の混乱した世間の風は、傷痍軍人の彼にことさら冷たく、やがてその日の暮らしにも事欠くこととなった。どんなことをしてもと働き口を捜したが、右腕の不自由な彼を雇ってくれる所は無かった。
「命がけでお国の為に戦って来たのにと思うと、腸が煮えて煮えて、煮えくり返る思いやった。」彼はそこで言葉を切り、私を見つめて
「俺は今日初めて他人に話すんや。笑うなよ。」と前置きして話を続けた。
「よおし、こうなったら強盗でも何でもしてやるわい。本気でそう思うたんや。あれは関門トンネルの雑役夫を志願して断られた日やった。帰りに小倉の闇市で刃物を物色しよったんや。そうよ、本気で強盗するつもりやった。露天商が道端に並べとる刃物をあれこれ見比べとると、俺の背中を叩く者が居るやないか。振り返ってみたら、びっくりしたなあ。体中に電気が走ったごたった。なんと藤井先生やないか。」
「やはり永島君だったね。生きてたんだね。」と声を掛けられた時、俺はわけも分からんごとなってしもうた。
気がついてみたら、先生に取り縋ってオイオイ泣き出しとった。街なかで大の男が泣き出すので、先生はわけが分からず、びっくりされちょった。ばってん、あん時ぐらい先生が有り難かと思うた事はなか。崖っぷちから転落する寸前、全く危ない所を助けてもろうたんやからな。それからも、まだまだ辛いこと苦しいことがあった。しかしあの時泣きじゃくる俺をあやすように「何も言わんでいい。何も言わんでいい。」と俺の背中を叩いて下さった先生の掌の温もりが忘れられんかった。他人に騙された時、明日の米をどうしようかという時、何時も先生の顔が浮かんできた。おかげで俺は何とか間違わずに今日まで生きてこられたんや。」
十数年前のその日が蘇って来たのであろう。彼の語り口はいつしか涙声になっていた。
(平成二年)