今朝の毎日新聞に中村秀明論説委員の「エシカルで変える」と題する次の解説が載っていた。
「消費者は甘やかされる存在なのか」七年半前、「記者の目」でこう書いた。消費者保護の強化を歌った消費者庁創設への異論だった。
公害など問題化した時代、消費者は世の中に働きかけようと専門知識を学んだ。だが「消費者ニーズ」という言葉が出てくると学ぶのをやめた。そして生産者はニーズを「安い」「手軽」「便利」に単純化し、消費者のわがままに乗った。今、必要なのは保護ではなく、役割と影響力の自覚ではないか・・・と言う趣旨だった。反響があった。「情報量が生産者より少ない中、もっと学べは酷だ」「企業の側に立つ経済記者が偉そうに言うな」との批判が多かった。
今、ちょっとした「変化」を感じている。
自らの役割と影響力に気づきつつあるのは若い世代である。英国生まれの考え方「エシカル」が合い言葉だ。訳せば「倫理的、道徳的」だが、小難しく考えてはいない。お茶の水女子大学附属高校(東京)の葭内(よしうち)ありさ教諭が2011年に始めた家庭科の授業は、その先駆けだろう。
といっても「エシカルとは」「倫理的な消費とは」を説くわけではない。消費の背景にあるもの、環境破壊や児童労働などの問題を見つめる眼差しを養うのだという。
「目の前のモノがどこから、どうやってきたのか」「手にしたものが誰かを悲しませていないか、みんながハッピーかどうか」。そうしたことを考える意識づけを狙う。体験と発信を重んじ、ファッションショーや「エシカル」を分かりやすく紹介したリーフレット作りなどに取り組んできた。そうすることで頭でなく体で受け止め、若い彼女たちの胸に意識が宿る。
一年生の時は生徒200人以上のうち「エシカルを知っている」のは一人だけという状況が、一年生の終わりになると「エシカルを知らないと言う人が多くて、とても驚いた」と口を揃えるようになると言う。伊勢丹が今年春「エシカル」をうたった催事を試みるなど、動きは少しずつ広がっている。消費者庁も「倫理的消費調査研究会」を作り、消費者が社会を変えていく可能性について議論を始めた。
研究会メンバーでもある葭内さんは「何かを学んだ生徒がいつか、10年後かもしれないが、行動起こしてくれるでしょう。まいた種がいつの日か開花するのを楽しみにじっと待っています。それが教育だと思います」と語っている。
これを読んで感じたこと、考えさせられたことなど、書き留めることにする。
① 冒頭の消費者保護無用論があったなど、私は知らなかったが、これは暴論である。原始時代の自給自足の状態から、人類が今日の様に発展することができたのは、ひとえに分業と言う生き方を手に入れたからである。分業によって人々は各自自分の役割に専念し、専門技術を向上・進歩させることができたが、同時に自分の専門以外の事についていくことが難しくなった。そこで消費者にしかるべき情報を提供する必要が生じたのであり、これを無用とするのは暴論である。
② 叱るとは「目の前のモノがどこから、どうやってきたのか」「手にしたものが誰かを悲しませていないか、みんなハッピーかどうか」を考え意識するようにすることと言うが、確かに我々は食事するときに、そんな事は考えていない。そもそも三度三度満足に食事ができることも、今日の日本人は当然のこととして、感謝する意識も失っているのが大半ではないか。
人間は食物連鎖の最後に位置し、多くの動植物を犠牲にして食べている。だから食事の前に感謝の祈りを捧げて箸をとっている。
改めてエシカルなどと言うカタカナ語を持ち出すのは、そうした食前の祈りが形式化してしまっているからではないか。しかし、食前の祈りが形骸化しているという事は、日本が世界中で最も安全・平和に恵まれていることの証(あかし)でもある。
③ そういうことを考えてみると、家庭や学校で食前に「いただきます」、食後に「ごちそうさま」をすることを改めて躾ける必要があるだろう。しかし、今時の家庭では、帰宅時間も食事も各人バラバラで、家族揃ってと言うのは、休日でも珍しいのかもしれない。
どうも日本の教育改革は、家庭団欒を可能にする社会の実現から始めなければならないようだ。
(平成二十七年八月十九日)
ramtha / 2016年1月22日