八月二十一日の毎日新聞の「余録」では、自民党の武藤貴也衆議院議員が金銭トラブルを暴かれ、自民党離党した事件を取り上げ、次のように記している。
「政治と言う仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力を込めて、ゆっくり穴を開けていくような仕事です」。ドイツの社会学者M・ウェーバーが、1999年に行った講演「職業としての政治」からよく引用される言葉である。
ちなみに職業はドイツ語では「ベルーフ」、もともと神に召されて与えられる使命を意味した。人それぞれの職業が神の召命であると言うのは、西洋の宗教改革から生じたプロテスタントの考え方で、ウェーバーはその信仰が資本主義を生み出したとの所説で知られる。
英語で呼び声を表す「コーリング」に職業の意味があるのも同じである。人はその呼び声に応じて天職を得る。だが今日の政治を業とする人々の中には、一体どんな呼び声を聞いたのだろうと首を傾げたくなる方もいる。
金銭トラブルを週刊文春に報じられた自民党の武藤貴也衆議院議員が離党した。暴かれたのは「国会議員枠で買える未公開株」なる話が登場する怪しげな揉め事で、立ち入った説明もないままさっさと離党届が出され、党もすぐさま受理すると言う手際良さである。
何しろ武藤議員と言えば、安保関連法案に反対する学生デモを「極端な利己的考え」と批判、憲法の人権尊重が「滅私奉公」を破壊したと嘆いていた当人である。
「どっちが利己的か」と突っ込まれ、近年の主張と矛盾する過去の行状が取り沙汰されたのも仕方ない。議員は自民党の候補者公募の呼び声に答えて政治家となったと聞く。はて、その情熱と判断力はどう判定されたのか。お手軽コーリングが招いた政治の劣化の兆候は目に余るものがある昨今だ。
「職業は国会議員」と言うのには違和感を感じるが、広辞苑による「職業」の説明では「日常従事する業務。生計を立てる仕事。生業。なりわい」とあり「政治家」の所では「①政治に携わる人。② (比喩的に)政治的手腕があり、駆け引きが上手い人。」となっている。
だから「国会議員」を職業の一つとすることに間違いは無い。にもかかわらず、違和感を感じるのはなぜだろう。老骨の頭を絞って考えてみる。
農業や商店などの自営業やサラリーマンなどは、一般的に生活の手段としての仕事と言うイメージであるが、国会議員や地方議会の議員は、国民や市町村民の幸福のために働くのが第一義的目的で、報酬を受け取るのはその公共奉仕の謝礼と言う感じで、いささか違うようである。
ことに市町村会議員は議会開催時以外の時間には、それぞれの生業に従事していることが多い。また議員の報酬もところによっては、それだけで一家の生活を賄うには足りない場合が少なくない。どうもこんなところから、議員をその人の職業とするのに違和感を覚えるのではと思われる。
しかし、国民や市町村民の幸福のために奉仕しているのは公務員も同じである。だが彼らは雇用契約による労働者であり、選挙で選ばれる議員とは身分を異にする。
こう考えてくると、議員、とりわけ国会議員は、公共への奉仕を自ら志願したもので、今回の武藤議員の私服を肥やさんがための行為は、議員としてあるまじき行為で、議員辞職を求める声が多いと言うのは尤もなことである。
しかしこのような議員は、まだ他にもいるものと思われる。こうした議員を議会から追放するには、何よりも彼らに投票する選挙民の意識改革が求められる。だが、地域への利益誘導を議員に求める選挙民の意識を変えるのは容易なことでは無い。でもこれを達成しなければ、日本の民主主義は本物にはならない。
(平成二十七年八月二十二日)
ramtha / 2016年1月24日