筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「日本人は変わりつつあるのか」

麻生OBの石野さんからお便りを頂いた。その中で「先日の第三十八回麻生OB会に出席しましたが、だんだん出席者が少なくなり、ずいぶん寂しくなりました。最近の情報社会の人たちはあまり群れることを好まないのか、どこの会合でも会員の減少に頭を抱えているところが多いようです・・・。」

と書かれてあった。これを拝見して、近頃気になっていた若い世代との心理的距離間について改めて考えさせられた。

荒っぽい言い方をすれば、私には日本人が次第に欧米化してきているのではないかと思われるのである。
大多数の欧米人の精神的基盤はキリスト教にあり、彼らの倫理は神の教えに従うことが基本のようである。

これに対して、日本人は自分を取り巻く社会のルールに従うことを道徳の基本としてきた。別の見方をすれば、西洋人はルネッサンスや宗教改革を経て、個人意識を自覚し、個人主義を日常行動の規範としているが、日本人は明治維新以降、欧米文化を取り入れ近代化を進めてきたが、周囲との協調共同を道徳の規範とする事は変わっていない。

日本人の個人意識は、社会の一員として初めて自覚されている。例えば和辻哲郎博士によれば、日本語の「ヒト」は、「人間」とも言われるが、中国では「人間」は「人間社会」の意味でのみ使われ、一個人を指す事は無いそうである。
「あのヒトは誰?」の「ヒト」は他人であるが、自分をからかう相手に対して「ヒトを馬鹿にするな」という時の「ヒト」は自分を指している。また「ヒト並みの暮らし」と言う場合の「ヒト」は世間を意味している。

同様に「人間」も「一人の人間」・「多数の人間」と単数にも複数にも使われるが、「人間万事塞翁が馬」の人間は社会を意味している。

こう見てくると、日本語は誠に不正確ないい加減な言葉のように見えてくる。
しかし、これはヒトを単なる個人として捉えるのではなく、ヒトは他のヒトと共存して、初めて人格を備えたヒトと言う認識に基づくものと考えられる。

昔は軍人が一人立っているのを見つけた子供が「あそこに兵隊さんが居るよ」と叫んだものであるが、兵隊は、正確には兵士が複数居なければならない。

このように、日本人は古来、人間を他人との関係の中で認識する習慣があり、我々はそこに違和感を感じる事なく当然のこととして使ってきた。それが最近いささか変化しているようである。どうしてだろう。

四~五十年前から日本人の日常生活が大きく変わってきている。中でも毎日の買い物にしても、昔は八百屋の店先で店主にいろいろ尋ねて買い物選びをしていたが、今日のスーパーでは、陳列棚から選んだ商品を備え付けのカゴに入れ、レジまで運べば、店員が商品に付けられたバーコードにスキャナーを当てて代金を計算しレシートを手渡してくれる。客は請求代金を支払って買い物が終わる。その間客と店員との会話は一切不要である。
さらに片田舎の路傍でも見かける自動販売機に至っては、硬貨を投げ入れ口に投入し、必要なボタンを押せば、希望する商品を手にすることができる。これまた一言も言葉を要しない。考えてみると、日常われわれは他人と会話することが、甚だしく減っている。
どうもこの辺に日本人の孤立化が始まったような気がする。

また、最近の若者はところ構わず指先を忙しげに動かして携帯電話を操作している。聞くところによると、一緒に歩いている友人との間でも、携帯を見つめてメールのやりとりをしているとか。
これでは従来の対面コミニュケーションから指先コミニケーションに変わってしまうのかも知れない。
携帯を手に、のべつ指先を動かしている人種には、みんなで集まって会話を交わすなどする暇はないと言う事かも知れない。大げさに言えば、日本人も社会的存在から、欧米風の個人主義人間へと、変わって行きつつあると言うことだろうか。

(平成二十七年十月八日)

ramtha / 2016年2月12日