今朝の毎日新聞には論説委員の福本容子女史が「ギリシャと日本」と題して次のようなコラムを載せている。
レスポス島は北東エーゲ海に浮かぶビーチがきれいなリゾート地だ。ギリシャ領だけど、トルコと10キロしか離れていない。だから彼らはまずここを目指す。アフガニスタン、イラク、そしてシリアからの難民たち。乳児までぎっしりのゴムボートが、お天気の日には一日で100隻近く、4,000人もの人々を、人口85,000人ほどの島に運んで来るそうだ。他の島々も合わせ、欧州の玄関口ギリシャに押し寄せた難民の数は今年で既に30万人になった。
「数の問題じゃないんです。命の問題なのです」。先日、東京で記者会見した駐日ギリシャ大師のルカス・カラツォリさんが切羽詰まった状況を語ってくれた。島のレベルではとても対応しきれないけれど、財政危機で国民の年金支払いを4割もカットしているような国に、前線の島を支援する力は無い。だけど命はなんとしても救いたい。
穴を埋めるように頑張っているのが、地元の住民や国際ボランティアや観光客らだ。「政府ではなく、一般の市民が寝場所や食物や薬を差し出し、連帯の話が広がっています」(大使)。
学校の数学の先生が両親の暮らしを支えるためガードマンのアルバイトをしている(英エコノミスト誌)ような厳しい状態にある中、もっと絶望的な人たちから目を背けられない現実と向き合っている。
「強いニッポン」「美しいニッポン」「ニッポンの底力」。売り込みたいとき、評価されたいとき、頻繁に登場する「世界のなかの日本」。自信を持つのはいいことだけど、では世界のどうしようもなく難しい問題にも、日本は日々、活発に関わろうとしている?「ギリシア人は怠け者」などと、もう笑ってはいられない。
これを読んで感じたことを整理してみる。
① 近頃「難民」と言う言葉がしばしば使われ、聞き慣れたためか、私も何となく分かったような気で使用している。しかし難民とは何か、もとは避難民の略語ではないか。広辞苑では「避難」とは「災難を避けること。災難を避けて他の所に逃れる事」と説明しているだけである。しかし、災害の状況が無くなれば、そこに帰るのが普通のあり方で、避難とは一時逃れと、私は理解していた。欧州へ向かって大移動してる今の難民の大半は、住み心地の良いドイツなどでの永住を目的としているようで、従来の難民の概念とは異なるものではないか。あの大群衆には本来の難民と移民とが混在していると解すべきではあるまいか。
② このコラムの「ギリシャの人は怠け者などと笑ってはいられない」という言葉には同感するが、その前段の「強いニッポン」以下の文章は、何を意図しているのかよくわからない。
日本に難民が押しかけてきているわけでは無い今日、日本国民としては直接支援の手を差し伸べる事はできない。日本としてできる事は、難民受け入れで苦しんでいる欧州の国々に応分の財政的支援をすることで、それは政府当局で既に行われているものと私は考えている。筆者は新聞社の論説委員であると言うからにはその辺の情報は知悉しているはずである。その上で政府の対応に不足があると考えているのならば、その意見を具体的に述べるべきで、単に漠然と日本人を貶める文章を記しているのは、どうしてだろう。私には日本のマスコミ特有の自虐史観によるものと思われるが、どうだろう。諸賢のご見解を賜りたい。
なお、私は後日耳にしたことだが、日本政府は避難民の支援もさることながら、シリアやイラクの紛争地から逃れることもできずにいる、貧しい人々への支援金を負担しているとのことである。
(平成二十七年十月十六日)
ramtha / 2016年2月14日