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二月八日 「今上陛下を戴く幸せ」

今朝の毎日新聞のコラム「風知草」で、山田孝男氏は次のように書いて居る。

「口利き」「マイナス金利」大報道の陰に隠れた感想なきにしもあらず。
先々週の、天皇、皇后両陛下のフィリピン公式訪問で呼び覚まされた、朽ちなんとする戦争と戦後の記憶を書き留めてみる。

フィリピンは、第二次大戦下、太平洋地域で最大の激戦地である。
戦死した日本人五一・八万人。激戦の断面は大岡昇平らの戦争小説に活写されているが、フィリピン側から見れば、日米の戦闘に巻き込まれ、命を奪われたフィリピン人が、推定で百万人以上いた。
わけても、日本占頷下の首都を米軍が奪還したマニラ市街戦(一九四五年二~三月)では、市民十万人が死んだとされる。
苦難の戦史と和解の戦後を確かめ、フィリピンの戦没者に花輪を、日本の戦没者には母国より持参の白菊を手向ける--。
両陛下の慰霊の旅の眼目はそこにあった。

一連の行事のハイライトである晩餐会のベニグノ大統領と天皇陛下の挨拶は、どちらも含蓄が深かった。
陛下は、スペイン統治下の十九世紀、非暴力の独立運動で処刑されたフィリピンの英雄、ホセ・リサールの名を口にされた。
リサールは一八八八(明治二二年)来日して自由民権の論客、末広鉄腸らと交わった。東京・日比谷に投宿した縁で、日比谷公園の帝国ホテル側の一角にリサールの胸像がある。

当時、日比両国は欧州の帝国主義に悲憤する盟友だったが、やがて日本も帝国を拡大。スペイン領土を奪った米国の覇権に挑み、新たな支配者としてフィリピンに現れた・・・。

以上の歴史を見渡し「日米の戦闘で貴国の多くの人が命を失い、傷ついたことを、日本人は決して忘れてはならない」と述べられたくだりがミソだ。

それに対し、アキノ大統領が過去を水に流してくれたわけではない。
大統領は、貿易・投資や安全保障に関する現在の日比関係に満足の意を示しつつ、こう述べた。
「私が両陛下にお会いして実感し、畏敬の念を抱いたのは、両陛下は生まれながらにしてこうした(戦争を巡る)重荷を担い、他者が下した決断の重荷を背負ってこられなければならなかったということにあります」
「他者」は、言わずもがな、昭和天皇を含む大戦下の為政者だろう。粛然と聞くほかはない。

大戦後、フィリピンの対日感情は最悪で、国交回復は一九五六年まで待たねばならなかった。道筋をつけたのは、マニラ市街戦で妻と三人の子を日本軍に殺されたエルピディオ・キリノ大統領だった。この人が、恨んで余りあるはずの日本人戦犯百八人に恩赦を与え帰国させたという逸話は、今回の両陛下のご訪問に合わせ、広く報じられた。

対日感情改善の大きな転機になったのが、六二(昭和三七)年十一月の、皇太子ご夫妻(いまの天皇、皇后両陛下)の親善訪問だった。
この時、ご夫妻はスペイン統治下の革命家で、フィリピン共和国の初代大統領だったエミリオ・アギナルド将軍(当時九三歳で存命)と会見された。

陛下は、すべてご自分でお書きになるという答礼のお言葉に、アギナルドの名も織り込まれた。恥ずかしながら、知らないことだらけのフィリピン近現代史である。

山田孝男氏も知らなかったというフィリピンの近代史は、私も知らなかった。この記事で初めて天皇陛下が該博な知識を備えておられることを教えられ驚いたが、陛下には、まだ私どもが知らないお心遣いをされておられるものと拝察されたことである。

また、ベニグノ大頭領も晩餐会の挨拶の中で述べているように、天皇陛下は大東亜戦争で日本が近隣諸国に及ぼした加害の責任を背負われ、戦後ずっと戦没者慰霊と関係各国との親善回復に努めてこられたことは、日本国民として深く敬服し、ひたすら感謝の意を捧げるばかりである。

私ども国民は、職業の選択をはじめ、あらゆる行動の自由が与えられている。しかし、陛下は皇室に生を享けられたその日から自由の無い毎日で、そのご苦労は如何ばかりかと、かねてから拝察申し上げているところであるが、この記事を拝見し、改めてその想いを深くし、ただただ感謝申し上げている次第である。

昭和初期、私たちが学校で教わった日本歴史によれば、昭和天皇は神武天皇を初代とする皇統譜の第一二四代で、今上天皇は第一二五代に当たられる。

私は大正十一年生まれだから、それ以前の天皇の治績については歴史書による知識しか無い。いずれにしろ、一国民として、歴代天皇について論(あげつら)うのは僭越の沙汰で、まことに畏れ多いことながら、敢えて申し述べさせて頂くとすれば、歴代天皇の中で最もご立派な天皇は、今上陛下であらせられると思っている。またその天皇を長年にわたり、支えてこられた皇后陛下も、素晴らしい方であらせられると拝見している。私たち世代は敗戦という前代未聞の経験もさせられたが、またとない、ご立派な両陛下を、上に戴く幸せに恵まれた人生であったと考えている。

ramtha / 2016年5月16日