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二月十二日 「『夫婦別姓・同姓』論議」

昨年十二月七日、近頃話題の「夫婦別姓」について取り上げた。そこでは日本の夫婦同姓は明治維新以後のことではあるが、いまでは大半の国民が違和感無く受け入れているようである。強いて同姓にこだわる程のことでもないが、親子、兄弟姓を異にするのでは、子どもに要らざる心理的負担をかけるのではと私見を述べたことであった。

男性の私は結婚しても改姓することなく来ているから、女性が実家の姓にこだわる気持ちは実感することは出来ない。そこで結婚して私の姓に改姓した家内に尋ねてみた。すると「そうすることと思っていたから、何も考えたこともない」という。
ところが今朝の毎日新聞では、「家族はどこへ」と題してこの問題を取り上げている。

家族観が揺れている。同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める条例が東京都渋谷区で施行される一方で、最高裁は昨年暮れ、夫婦別姓を認めない民法の規定を合憲と判断した。選択的夫婦別姓制度については、世論は割れる。そして、多様化する家族のかたち。この国の家族はどこへ向かおうとしているのか。

という前書きと、「夫婦別姓 割れる世論」と題して

最高裁は昨年十二月十六日。夫婦同性には家族の一員であることを実感できる利益があるとした。女性側の不利益も「通称使用の広がりで緩和されている」と指摘して合憲と判断した。

同月の毎日新聞の世論調査では「夫婦別姓」を選択できるようにすることに「賛成」は五一%で「反対」の三六%を上回った。だが夫婦別姓が認められた場合、「夫婦で同じ名字」と考えている人は七三%に上り「別々の名字」は十三%にとどまった。

との参考資料を添え、著名人の賛否両論を紹介している。

まずは「別姓主張論」の元NHKアナウンサーで作家の下重暁子氏の主張を見る。

「下重暁子」をペンネームだと思っている人は多いが、私はこの名前で生まれ、育った。四十年ほど前に結婚したとき、連れ合い(夫)の姓に変わった。いろいろ考えた末に妥協したのが大間違いで、ものすごく後悔している。

私たち二人はそれぞれ仕事をし、独立採算制で生きてきた。家など一緒に暮らす上で必要なものは半々で買っている。それなのに戸籍から下重暁子という人が存在しなくなり、私は戸籍筆頭者の付属物という扱いになった。

逆に下重暁子を公式に証明するものはない。「私はいないの?」とショックだった。別の名前で呼ばれることの「不快さ」は、男には分からないだろう。

明治初期に当時のドイツをまねて夫婦同姓を導入したのは、官僚国家を作り上げるのに役立つと考えたから。伝統でも何でもない。国にとって家族が一つにまとまってくれたほうが治めやすい、ということでしかない。今の安倍政権が考えていることも同じ。

夫婦同姓を合憲とした最高裁判決は、時代遅れもはなはだしく、残念でならない。夫婦別姓はそもそも女の問題なのに、十五人の裁判官のうち女性三人という構成では、当然の結果だろう。判決は「(夫婦同姓規定に伴う)女性の不利益は、通称使用の広がりで緩和されている」
と指摘したが、これも男の発想。私が仕事で外国に行くとき、旅行社が下重暁子の名前でチケットを手配してしまい、パスポートの名前と違うので空港で変えてもらうこともあった。日本がまねたドイツは、選択的夫婦別姓に変えている。先進国で夫婦同姓が残っているのは日本だけで、恥ずかしい。
「夫婦同姓でないと家族が崩れていく」といわれるが、とんでもない。すでに家族はばらばらになってきている。

父、母、子という役割を分担しているだけで、心はつながっておらず、個として理解し合っていない。最近は家庭内の犯罪も嫌になるくらい多い。殺人事件の件数は戦後減っているが、逆に家族間の殺人は増え続けている。
現実の方が先に行っているのだ。「我が家は幸せだ」と言っている人も、外にいい顔したいだけ。みんな家族のことで悩んでいる。だからこそ家族に頼りたい、家族を信じたい、という幻想にすがりつく。

今の家族は自分たちのことしか見えていない。子どもがいい学校や会社に入ってくれればいい、と内向きで、周囲への心配りや、社会の一員という感覚が失われている。逆に夫婦別姓のほうが緊張感があり、いい関係を築ける。私の周囲にそういう女性は多い。好きな人と姓を合わせたい人はそうすればいい。大切なのは自分で選べるようにすること。家族は個の集団であり、いろんな家族があっていい。今の日本は「個」を包含するゆとりが
なくなり、どんどん窮屈になっている。最高裁は国会での議論を促したが、私が生きている間に夫婦別姓を認める法改正ができる保証はない。私は事実婚にして戸籍を下重暁子に戻し、本名で死にたいと思っている。

これを読んで私の感じたことを列記してみる。

① 下重暁子女史にはお子さんは居ないのではないか。もし居るとしても、同氏の家庭はすでに崩壊しているのではないか。
「すでに家族はばらばらになってきている。父、母、子という役割を分担しているだけで、心はつながっておらず、個として理解しあっていない」と述べているのは、世間一般のことかと思っていたが、前後の文章から受けとられる印象では、女史ご自身の家族のことのように感じられる。

② 最近の世相を見ると、女史の言う「家族がばらばらになっている」家庭崩壊の事例が少なからずあり、日本の将来が憂慮されることも確かである。しかし、その原因は「夫婦同姓」とは無関係で、夫婦共働きなど経済的要因や就業時間のずれで家族相互のコミュニケーションの不足によるもので、これに「夫婦別姓」が加われば、家庭崩壊に追い打ちかけることになると私は考えている。

③ 愛する人と結婚し、その人と姓を同じくすることに喜びを感じない、その程度の夫婦愛のなかで暮らしているとすれば、不幸せな生活をされているものと同情する。
「本名に戻して死にたい]と述べているところを見れば、お墓もご主人とは別にするつもりと推察される。よくよくご主人は嫌いだが、離婚しないでいるのは、有名人の世間体のためかと、私のような凡人は邪推したくなる。

④ また「今の家族は自分たちのことしか見えていない。子供がいい学校や会社に入ってくれればいい、と内向きで、周囲への心配りや、社会の一員という感覚が失われている」とも述べているが、確かにそういうタイプの人
も少なくない。しかし、それが「夫婦同姓」とどういう因果関係にあるのか、説明が無いから分からない。

⑤ どうも彼女の主張を見ていると、彼女のように社会に出て男と対等の活躍をするのが、あるべき現代女性で、農家や商家などの自営業で毎日夫とともに家業に従事したり、あるいは家庭内で幾人もの子育てや、五体不自由
な義父義母の介護に明け暮れる主婦などは眼中に無いようである。「周囲への心配り」が失われているのは彼女自身ではないか。

⑥ 「今の日本は『個』を包含するゆとりがなくなり、どんどん窮屈にな。ている」と述べているが、具体的事例は上げられていないから、何を窮屈に感じているのか分からない。
私自身の人生を顧みると、懐具合は別として、昔に比べて日常生活が窮屈になったなど感じたことはない。しかし、現役を引退して三十年にもなる隠居暮らしの私など、比較の対象にもならないと言われるかも知れない。

確かに、世の中の進歩に伴って、介護保険などの社会保険が充実したり、また最近ではマイナンバー制度などというものができて、それらに関する届け出や自動車運転免許取得手続きとか各種保険に関する事務手続き、外遊するにはパスポートの交付手続きなどが必要になっている。しかし、それらは自分の生活を豊かに、快適にするためのもので、こんな制度を面倒で窮屈などというのは、我儘以外の何ものでもない。

こう考えてくると、下重女史はよほど多忙で、社会生活上必要な雑事をする暇がなく、いつもイライラしているのだろう。その欝憤を「夫婦別姓」を借りて八つ当たりしているに過ぎないと了解した。

次に「夫婦同姓が子どもを守る」とする、麗沢大学教授(憲法学)八木秀次氏の考えを見る。

「夫婦同姓は一世紀前の『創られた伝統』」という論を耳にする。英国の歴史家エリック・ホブズボーム(一九一七~二〇一二)の〈[伝統]のほとんどが近代に捏造された〉という、マルクス主義的な思想に影響された、根拠の希薄な主張だ。

歴史的に見れば、日本で夫婦同姓が制度として導入されたのは一八九八(明治三一)年施行の民法である。では、それ以前はどうだったのか。父系を重視する武家は夫婦別姓だ。たが、慣行上はどこどこの奥方と呼ばれるなど、家との関係が重んじられた。姓を持たない庶民層も「屋号」があり、その家の旦那、女房、子というとらえ方をしていた。そうした家族観は長い歴史を背景に、民族古層の記憶として刻まれている。「国際標準は夫婦別姓」という論も乱暴だ。グローバルスタンダードは善なのか。文化背景の相違を認識すべきだ。
その意味では、先般の最高裁判決は画期的だった。家族を「社会の自然かつ基礎的な集団単位」ととらえ、共同体としての「家族」の意義にまで踏み込んだ。現実には通称使用の定着で別姓を求める根拠が薄れるなか、最高裁は夫婦同姓が家族の一体感を支えていると認めたと、私は評価している。

別姓を求める人たちには、子どもたちの姓をどうするのかという根本的な視点が抜け落ちている。子どもの姓をいつ決めるのか。兄弟の姓はどう決めるのか。要は、子どもの福祉である。なるほど、家族関係は時にわずらわしい。それでも制度として縛りをかけているのは人の気持ちが移ろいやすいからだ。親の身勝手で犠牲になるのは子ども。そうしたリスクを低減し、子どもを産み育てる制度として日本の「家族」はつくられてきた。だからこそ、夫婦の同居義務、扶助義務が定められる一方で、夫婦は相続や税制面などで特別に保護されている。

同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める自治体が出てきた。同性愛者ら性的少数派が生きやすい社会にしていくことは大切だ。しかし、婚姻は子どもたちを産み育てる基本単位であるゆえに、優遇されている。つまり男女に限った制度だ。同性婚を結婚と同等に見なすのは行過ぎだ。教育現場では、同性愛、両性愛などについても異性愛と等しく教えるという。原則と例外がいっしょくたにされている感じがする。

平和で豊かな社会は分解する。社会学の定説だ。家族も同じで、母子家庭、父子家庭は急増し、貧困問題につながる。危機的な財政状況のなか、家族政策は見直しを迫られている。大平内閣が一九七九(昭和五四)年に打ち出した「日本型福祉社会」は再検討に値する。高齢化社会を見越し、家族基盤を充実させることで持続可能な社会を築こうとした。同居老親の特別扶養控除などにつながったが、そうした保障は次第に世帯単位から個人に変わり政策は骨抜きとなった。

社会的には、国が家族を保護するという趣旨の「家族条項」を憲法に盛り込む時期にきているのではないか。家族を社会の中できちんと位置づけることが家族、社会の解体の抑止につながる--。私はそう思う。

八木先生のこの論説について感じたこと教えられたことを整理してみる。

①「夫婦同姓」が子どものために必要であるという説はかねてからの私の所見と同じで、わが意を得たりと思ったことである。

② 私は、東京都渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」としたことに違和感を感じたものの、これを反駁する論拠が見出せず、ずっともやもやした気分でいた。しかし、「婚姻は子どもを産み育てる基本単位」であるという八木先生の説明で了解した。

③ 世の中には子どもに恵まれない不運な夫婦も少なくないが、こればかりは天の配剤で如何ともしがたい。最近では医学の進歩で人工受精などで解決してる人も居る。男女とも出産適齢期があり、これを過ぎると、難産になったり流産したりすることが多いということらしい。
年頃の人たちは男女ともこれを認識して人生設計を考えてほしい。

④ 近頃は仕事が忙しく、残業などで帰宅も遅くなる人が多いようである。そんなことも関係しているのか、心ならずも結婚が遅くなるケ-スもあり、四十歳過ぎての初婚という人も少なくないと聞く。晩婚が日本の少子高齢化の一因となっているのではなろうか。

⑤ 最近では「少子高齢化」という言葉をしばしば耳にするが、人口の減少は民族の衰亡を招くことになる。人口を増加回復することは容易なことではない。中国では、先頃「一人っ子政策」の転換をしたようだが、その成果が見られるのは何時のことになるやら。わが国でも、結婚適齢期や子育て世代の収入を増やすなど、政財界の指導者は早急に対策をしなければ、悔いを千載に遺すことになる。

ramtha / 2016年5月16日