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三月二日 「空腹を知らない世代へ」

かつての名作テレビドラマ「北の国から」の作者・倉本聰氏が、今日の毎日新聞に「恩送り」と題して次のようなエッセイを載せている。

富良野に移って間もない頃、近所の農家さんにいただいた南瓜(かぼちや)があまりにおいしかったものだから、電話をかけてお礼を言った。こんなうまい南瓜は久しぶりに食べました、と。するとその農家のじっちゃんが、そんなこと言われたの何年ぶりだろうとつぶやき、それから突然涙声になって、ありがとうありがとうと逆に言われた。ショックだった。

戦中戦後のあの飢えの時代、食とは腹の問題だった。
背中と腹がくっつきそうになるのを何とか埋めてくれる胃袋の問題だった。だが今、食は胃袋から舌の問題に移り、うまい!と感謝される対象は板前や料理屋の店主に代わって、そもそもの食料生産者は感謝の対象から外されている気がする。

一食何千円何万円もする都会の料理屋は、その基になる第一次生産者にそれだけの対価を払っているのだろうか。消費者の支払う高額の金は、その何割が本来の生産者に渡っているのだろう? 高価な着物を風呂敷に包んで必死に頭を下げ、何個かの芋と交換してもらったあの飢餓の時代を経験したものにとっては、何かが狂ってしまった気がしてならない。

食うことによって我々は生きている。その食料は自然が創る。自然と農民の労力が創る。ITも金融も食料は作れない。にもかわらず、人はその恩恵を忘れている。
恩送りという言葉がある。恩返しではなく、恩送りである。恩返しは当座の謝礼だが、恩送りは未来永劫に対し、その恩を返していく行為をいう。だから江戸期の知の巨人・安藤昌益は自然の循環の中で万人が自ら農耕に携わることを厳しく唱えた。

政治家・実業家・科学者を目指すものはいても3Kといわれる農業後継者がどんどん減っているという悲しい現実。この国の人々は、恩送りという、そもそもの生命の継続のルールを、どこかに置き忘れてきたように、思われる。

(注)安藤昌益=江戸中期の医者・社会思想家。出羽の人。南部八戸で町医者を開業。万人の平等を唱え、万人が農耕に従事する「自然世」を理想とし、上下差別の存在する「法世」の現実を批判し、それを支える既成の運気論や儒仏の教説を否定した。

(注)運気=自然のめぐりあわせ。運命。天地・人体を貫いて存在するとされる五運六気で、漢方医は、これが人間の脈にあらわれるとして重視した。
(広辞苑より)

昨年(平成二七年)は戦後七十年の区切りの年と言われたから、今年七十歳未満の人は、みんな戦後生まれということになる。また、昭和三一年の「経済白書」では「もはや戦後ではない」と言われたことである。ということは、それまでは戦中・戦後の物資不足の生活に国民は耐え忍んで来たということになるが、当時の国民は戦前戦後を通じて、何年ぐらいそんな暮らしをしてきたのだろう。その辺のことを日本史年表(東京学芸大学日本史研究室編集)から拾い上げてみる。

昭和十三年 五月 ガソリン切符制実施
十月 石炭切符制実施
十四年十一月 米穀強制買い上げ制実施
十五年 六月 六大都市で砂糖・マッチ切符制開始
十六年 四月 六大都市で米穀配給通帳制実施
十六年十二月 太平洋戦争開始
十六年十二月 アメリカ映画上映禁止
十七年 一月 塩通帳配給制実施
十七年 二月 衣料点数切符制実施
十七年 二月 味噌・醤油切符配給制実施
十八年十二月 学徒出陣
十九年 二月 雑炊食堂開設
十九年 七月 学童集団疎開範囲を東京都ほか拡大
二十年 八月 終戦
二一年十二月 閣議で傾斜生産方式決定。戻亠習謖
二二年十二月 炭鉱国家管理施行
二四年 四月 野菜自由販売となる
二五年 四月 魚、衣料の統制、煙草の配給廃止
二五年    朝鮮戦争の特需景気起こる
二六年 九月 対日平和条約一日米安保条約調印
二六年 十月 閣議、主食の統制撤廃措置要項決定
二六年十一月 政府、米の統制撤廃延期を声明
二七年 六月 麦の統制撤廃
二八年 二月 東京地区でNHKテレビ放送開始
二九年十一月 全国農業共同組合中央会設立

なお、昭和二六年の記録は、政府は十月に米の統制撤廃を決めながら、翌月これを延期したとあるが、なぜか分からない。GHQからの示唆かと、老骨は邪推してみたりしたが分からない。

米穀通帳の廃止については、日本史年表には記載が無いが、広辞苑では昭和五七年食糧管理法の改正により廃止されたと記されている。私の記憶によれば米穀通帳は昭和二十年代後半には、すでに使われず、米の販売、購入は自由に行なわれていたようだ。どうしてこのように長年放置されていたのか分からない。

私自身の食生活について言えば、昭和十六年の太平洋戦争開始時は、旧制高校三年生、まだ福岡に居たので主食で不自由することはなかったが、校門前の食堂「福岡亭」のゼンザイはいち早く姿を消した。

翌年大学入学で上京したが、伯母の家に厄介になったので、食事でさほどの苦労をすることはなかった。ただ昼食は大学の食堂を利用していたが、これには米穀通帳に代わる「外食券」なるものが必要とされた。しかし、外食券を差し出しても、品切れで食い逸(はぐ)れることもある有り様で、学生の中には、昼前の講義は早めに抜け出すものも少なからず居た。

あれは確か昭和十七年のことだったと思うが、京都駅構内の食堂のショーケースで巻寿司の皿を見つけ早速注文した。しかし目の前に現れたのは、中の具と外側の海苔は本物だ。たが、肝心の米の部分は豆腐殻(おから)でがっかりしたことである。

戦況が傾くにつれ、一般庶民の食生活は日を追って厳しくなり、ずいぶんひもじい思いをしたらしい。私は昭和十八年十二月、学徒出陣で軍隊に居たので、そんな思いはしなくて済んだが、主食は満州から移送された高梁(コーリャン)などの、雑穀まじりの不味いものであった。

戦後もしばらくは同じようなことであったが、炭鉱の独身寮で暮らしていたので、石炭産業向けの特別加配米のおかげで、空腹で堪らないと言うことはなかった。しかし、子供を抱えた社宅の人たちは、倉本氏が書いて居るように、高価な主婦の晴れ着を差し出して農家から穀物やさつま芋などを分けてもらう苦労をしていた。

あれから六十余年、日本はすっかり変わってしまった。
先日も「『廃棄カツ横流し』で考える」で紹介したように、まだ食べられる食品で廃棄されているものが年間三三一万トンにも及ぶという。

世界中には飢え死にしている子供が多数居て、「この子らへあなたの善意を」という募金をUNICEF(国連児童基金)がテレビ放送しているのを毎日見るが、日本人は誰も見ていないのだろうか。

また、食糧自給率でも先進国中最低とも言われているのに、日本人は何を考えているのか。空腹の体験がない戦後生まれの人が大多数となってしまったから、みんな暢気(ノンキ)にしているのだろうが、世界中の国々が食糧の輸出を禁止したら、その日から日本では餓死者が巷に溢れることを覚悟しておいてもらいたい。

ramtha / 2016年5月21日