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三月七日 「絶滅危惧種の計画停電」

今朝の毎日新聞の短歌欄に「計画停電の記憶」という「見出し」があった。歌人藤島秀憲氏の一文である。それにしても、「計画停電」なんて、終戦後の昭和二二年麻生本社の職員合宿以来、約七十年ぶりにお目にかかった言葉で、あまりの懐かしさに早速本文を読んでみた。ところがその書き出しは次のように書かれている。

東日本大震災の後、被害を受けた発電所が稼動を停止したために電力の不足が生じた。東京電力は、大規模な停電の発生を避けようと、電力の供給地域をグループに分け、一回当たり三時間、電力の供給をストップした。これを計画停電という。

いや-驚くとともに、自分が今や前世紀の遺物と化していることにも気がつかず、はて俺にも認知症が始まったのかと思ったことである。

改めて新聞を良く見れば、掲載されている藤島氏の写真はまだ壮年の顔つきではないか。それを見ただけで、自分の世代よりずっと新しい世代の話と気がつきそうなのに、そこに気が回らないのだから、どうしょうもない。やはり私は大正生まれの絶滅危惧種であると思い知らされた。だから、この欄の短歌にも話題にも関心はない。そこで代わりに絶滅危惧種の記憶を辿ってみることにする。

昭和二二年、私は麻生本社の庶務課に勤務していた。当時、片山哲氏を首班とする社会党政権の料理飲食店禁止で休業していた飯塚市本町の料亭松月を麻生が借りて独身寮としていたが、私はその一室に起居していた。

戦後間もない頃で、未だ電力不足のため、朝から夕方までは、正午前後一時間を除いて計画停電が行なわれていた。

一流料亭を借りているのだから、炭坑の社宅のように豆炭を燃やす七厘を持ち込むこともできず、冬の夜は蒲団に入り、腹這いになり本を読んで過ごしたが、冷たくなる掌は、枕元に置いた小さな電熱器に翳(かざ)して僅かな暖をとるというありさまであった。冷える朝もしばしば利用したものだが、計画停電の時間には容赦なく消える。腹立たしいがしかたない。

あの日も格別寒い朝だった。蒲団から出るのをぐずぐずしていると会社に遅刻しそうになる。万年床はそのままに慌ててでかけた。

前日、佐賀県・久原炭坑の高井君が本社出張で私の部屋に泊まらせろと連絡があったから、部屋には別に鍵などかけてないから、勝手に入って待っておくよう伝えておいた。

退勤後、寮に帰ってみたら、高井君は来ているが、部屋の窓は開けたままだ。なんとなく焦げ臭い。
「俺が来るのが今少し遅かったら、お前は首になっていたぞ」と言い、一部黒焦げになったアルバムを指さす。考えてみたら今朝はあまりの寒さに電熱器のスイッチを入れて見たが、すでに計画停電で点火しなかった。遅くなったのでそのまま出勤した。その時何のはずみか電熱器の上にアルバムを置いたものらしい。正午の電気供給時に自動的に点火し、この騒ぎとなったものらしい。

アルバムの台紙は分厚いから、薄い紙のように、すぐめらめらと燃え上がらな。たのが、不幸中の幸いであった。後になって恐さが身に染みてきたが、よろずだらしない私も、それからは多少なりと要心深くなった。

しかし、九十歳の坂を越してからは、よろず忘れ易くなり、火の始末について家内から注意されることが多くなってきた。自分でもストーブから離れるときは、消し忘れてはいないか、後戻りして再確認することもある。

しかし、皮肉なもので、そうした時に限って無駄足となることが多い。五体不自由の身となったからには、無駄足はリハビリをしたと考えることにしょうと思って居る。

ramtha / 2016年5月21日