横浜の孫から電話があった。冬休みの宿題で、おじいちゃんの子供の頃の暮らしや遊びなどで、今とは違っていたことを教えてくれと言う。
もう冬休みも後一日だから、取り敢えず電話口で思いつくまま、いくつか応えたが、電話を切った後になってずいぶんいろいろ教え残したことを思い出した。
顧みれば、私も今年(平成二十二年)は数えの八十八歳、いわゆる米寿である。以前は年に二回、長女の住む信州と次男の居る横浜へ出かけ、子や孫達としたしく話す機会もあったが、近年、足腰が急速に衰え、それも叶わなくなってきた。
今後、孫達に昔話をして聞かせる機会も多くはないことだろう。してみると、今回の孫の質問を機会に、朧げな記憶の糸を手繰り寄せて、身辺のもろもろの遷り変わりを記しておくことも、まんざら無意味なことではないかも知れない。
「昭和」は、西暦一九二六年から一九八九年まで実に六四年の長い間使われて来た、我が国で最長の年号であり、その時代には数多くの歴史的大事件が発生している。米国はじめ世界の列強を相手に戦った太平洋戦争はもとより、敗戦を契機として始まった政治、社会体制の変化、そして奇跡とも言われた敗戦後の復興、さらには経済大国へと駆け登った、まさに目まぐるしい激動の時代であった。
そうした、政治経済の変革発展とともに、あらゆる分野における目覚ましい技術革新があり、それがわれわれ庶民の生活にも劇的な変化をもたらした。
昭和も、とりわけ戦後六十年の変化のスピードは、極論すれば、過去千年のそれに匹敵するものと言えるのではないか。仮に、昭和初期の住民が、マイカー・コンビニ・携帯電話の溢れる今日の世に生まれ替わったとしたら、その驚きと戸惑いは、鎌倉武士が明治維新を目にしての驚きなどとは、比べものにもならないに違いない。
私は大正十一年、八幡市(現北九州市)で生まれ、満四歳で昭和の時代を迎えている。そして昭和四年、小学校に入学、昭和十八年、学徒出陣で入隊。昭和二十年敗戦とともに、筑豊の炭坑会社に就職。爾来四十三年サラリーマンとして勤務の後、昭和六十三年引退、年金生活に入っている。だから私にとって、平成は文字通り余生であって、私の人生は激動の昭和に終始していると言っていい。
顧みれば、四十名ほど居た小学校の同級生も、多くは既に鬼籍に入り、今年手にした年賀状も、もはや五指に満たない。
クラスメートの中で最もひ弱と言われた私が、こうして生き残って居ることも、まことに不思議に思われることであるが、それだけに、昭和初期、われわれが体験してきた日々を思い起こし、歴史書には記されない庶民生活の遷り変わりを、彼らに代わり書き留めるのは、私に残された務めではないかと思はれてきた。
八十余年。漫然と生き長らえて来た私の怠け心が、今しきりと揺さぶられ、机の片隅に埃を被っているワープロを引き出したところである。
ここに記すものは、上述したように、昭和初期の北九州で、幼児期を過ごした私の個人的な経験と記憶によるもので、当時の社会一般の事情と相違することも少なからずあるのではないかと、私自身危惧している。
幸いにして、後日この拙文にお目通し頂く方々には、それを念頭に置いて、ご覧頂くようお断りしておきたい。
また今日では全く見かけなくな。た品物や、すでに死語となってしまったものについては、平成生まれの方達のために、主として広辞苑より引用した(註)を入れることとしたので、ご参考にして頂ければ幸いである。
ramtha / 2016年5月31日