もう何年か前のことになるが、十数年ぶりに麻生本社の事務所を訪れたことがある。
昔、私が勤務していた事務所はすでに取り壊されて、別の場所に建て替えられた事務所だから、昔と様子が変わっているのは当然のことである。
かつて私が勤務して時は、事務室の周囲の壁際には、天井までも屆くような書類棚が幾つも並び、それぞれの業務に関する書類のファイルが、ぎっしりと納められていたものである。
ところが新しい事務所では、昔は見たこともなかったパソコンが、各人の机の上にあるだけで、周りを見回しても書類棚のようなものは無い。その時、時代の変転を目の当たりにするとともに、自分自身が二十世紀の化石となっていることを痛感したことであった。
顧みると、私が入社した昭和二十年から数えても、すでに六十余年を経過している。事務の進め方も、事務機器や事務用品も著しく進化して居て不思議は無い。
今回は私たちが日常身近に使用する文房具などについて振り返ってみることにする。
a石筆・石盤
今頃の小学校ではどんなことになっているのか知らないが、昔は小学校一年生の初めは、石盤に石筆で、カタカナを何度も書いては消して、練習させられことである。多分、当時は鉛筆も練習帳も庶民には、高価で浪費出来なかったからではないかと思われる。かつてヒットしたテレビドラマの「おしん」は、地面に竹切(たけぎれ)で字を書いている場面があったように思うが、そういう風景は、私自身を含めよく見られたことであった。
(註)石盤(セキバン)=粘板岩の薄板に木製の枠をつけ、石筆で文字・絵などを書くようにしたもの。
(註)石筆(セキヒツ)=蝋石などを筆形に造り、石盤に文字・図画などを記す用具。
長女が小学校に上がったのは、昭和三十一年だったが、たしか「ひらかな」から習い始めていたようだ。
前述したように、私たちの時は、カタカナから習い、その次に「ひらかな」へと進んだものだが、どうして、逆にしたのだろう。今では曲線を書きづらい石筆を使わず、一年生の初めから鉛筆を使用しているようだが、それでも幼児には。曲線の少ないカタカナの方が書きやすく、習得も容易と思われるのだが、どうしてだろう。
多分、戦後の文部省が、教育界の専門家に諮問して決めたことで、それなりの理由があるのだろうが、私には理解出来ない。
先日も街のフラワーショップの看板のシがツに、ツがシと書かれているのを見たが、このような間違いは昔は考えられなかったことである。最近はやたらとカタカナ語が氾濫しているのに、小学校ではカタカナ学習をおざなりにしているのではないかと思われる。
カタカナ・ひらかなは全ての学習に欠かせない基本である。それを疎かにして学力低下を嘆いてもはじまらないのではないか。
b 塗板・チョーク・黒板拭き
教室での授業は、今も変わりないことと思うが、先生が塗板にチョークを使って、文字や算式・図形などを書き示して行なわれていた。
塗板は別名黒板とも言われるように、黒く塗装されたものが多く、私が緑色の塗板に出会ったのは、旧制高校のときではなかったかと思う。
また、チョークは白墨(ハクボク)とも言われるように、白いチョークが主に使用されていた。赤・青・黄などの色チョークもあったが、黒板の上では、青や赤で書かれたものは、白のように鮮明には見えず、雨天の日、視力の弱い私などは、前の方の席に居ても、見えづらく苦労したことが思い出される。
小学校の低学年では、授業が終わると、先生が黒板拭きで、黒板を拭き消しておられたが、四年生の頃からは、その日の当番の生徒が拭いていた。
なお、黒板拭きは使っているうちに、白墨の粉で覆われ、黒板の字が消えにくくなるので、休み時間には、窓から外へ身を乗り出すようにして、竹切れで叩いて粉を落としていたが、飛散する白墨の粉が目や口から入らないように、なかば目を閉じ、息をこらえてしていたものである。しかし神経質と思われるほど、学童の健康管理に喧しい今日の学校ではどうしていることだろう。黒板拭き専用の掃除機があるのかも知れないと思って、次男に聞いてみたら、今では黒板拭きに付着した白墨の粉を、箱の中で自動的に吸い出す、黒板拭きクリーナーが使われているということであった。
なお、昭和五十年代、ビジネススクールの講師をしていた時は、黒板・白墨の代わりに、プラスチック製のホワイトボードとマジックペンを使って授業をしていた。
しかしホワイトボードは見る角度によっては光を反射して見えにくい難点があったようだ。
長年浮き世のことから遠ざかって居り、このようなことには疎くなっているので分からないが、テレビで見る講演会などでは、スライドのようなもので、前面のディスプレイに、文字や図形を大きく写し出して、説明をしているようだから、大学の授業では、あのように進化しているのかも知れないと、推測してみたりしている。
C 鉛筆・小刀・鉛筆削・シャープペンシル
鉛筆も一年生の時に使い姶めたと思うが、当時の鉛筆は芯が折れやすく、しばしば削って芯を出さねばならない。今では電動式の鉛筆削機があり、いとも簡単に削ることが出来るが、その頃は折込式の肥後守(ヒゴのかみ)と銘の入った小刀で削るほかはなく、低学年の児童には、なかなか難しい作業であった。器用な子は手早く綺麗に削るのだが、無器用な私は、削っている途中で出てきた芯が折れ、何度も削り直さねばならなくなり、泣き出したいような思いをしたものだ。
小さな穴に鉛筆を差し込んで、指先で回す簡単な鉛筆削りや、ハンドル付の鉛筆削機が出現して、ほっとしたのは、いつ頃のことだったろうか、覚えていない。今では穴に差し込むだけで削れる電動削器を使用している。
鉛筆は芯の硬さにより幾種類もあったが、通常はHBを、デッサンを描くときは、軟らかい4Bを使っていた。登校するときは、筆箱に四、五本鉛筆を入れていたが、前夜家で削っておいたのに、始業時刻に遅れまいと走って登校したりすると、振動するランドセルの中で折れてしまい、教室であらためて削らねばならぬ目にあった苦い思い出もある。
携帯用のシャープペンシルに出会ったのは、昭和十年代、中学生の頃だったと思う。クリップつきで、胸のポケッ卜に差し込んで持ち歩く、当時としてはハイカラなものであったが、生来だらしない私は、肝心のメモ帳を携行するのを忘れ、折角のペンシルが、役に立たず仕舞いになったことも度々あった。
d 筆 箱
今頃の子供たちは、どんな鉛筆ケースを使っているのか知らないが、私たちの小学生の頃は、セルロイドの筆箱というのが一般的であった。それは薄っぺらなセルロイド製であったから、極めて弱く壊れやすい代物であった。だから私など、小学校六年間で、何度か買い替えたはずだが、それもよく憶えていない。私の記憶の中には筆箱というものは壊れやすいものだという印象だけが強く残っている。
麻生本社の労務課に木庭暢平さんという上司が居られた。私にとっては旧制福岡高校の三年先輩に当り、極めて几帳面かつ綺麗ずきな方で、後年、麻生太賀吉社長の懐刀として活躍された秀才でもあられた。よろずだらしない私は、木庭さんの隣の席に居るだけで、緊張する毎日であった。
その木庭さんが事務所で使用している筆箱は、まさに、そのセルロイド製であり、しかもその筆箱は、木庭さんが小学校入学のとき、お母さんに買って貰ったものとのこと。木庭さんは、その筆箱を小学校六年、中学五年、高校三年、大学三年、そして軍隊生活と、長年にわたって愛用して来られたと聞いては、ただただ驚嘆するほかはなかった。私は、金属製の筆箱や革製のケースを使用したこともあったが、中学・高校・大学ゝ軍隊と、木庭さんと同様な歳月を過ごす間に、どれだけ筆箱を浪費してきたか、自分自身のことながら、呆れるほかはない。
e ペン・鉄道ペン
小学校ではもっぱら鉛筆を使用していたが、中学では英語の筆記体を書くペン習字をさせられた。そのため、ペン先を差し込んだペン軸と小さなインク壺を持って登校しなければならないが、カバンの中でインクが漏れ出さないよう、栓をきつく閉めるなど苦労した。
中学の地理では、鉄道地図なども書かされたが、鉄道線路を示すためには、先が二つに分かれた独特のペン先(たしか鉄道ペンと言っていた)を使ったことが思い出される。一度に二つの平行した線を書くことが出来る、あのペン先は、鉄道線路を書く以外に、使用した憶えはないが、ほかに使用法があったのだろうか。
なお、子や孫達が鉄道ベンを使っているのを見たことは無いようだが、今頃の学校では地図を書かせるようなことは、しないのだろうか。
そう言えば、私たちが小学校の頃は、五・六年の二年間、日本地理の学習をさせられ、四十七都道府県名と県庁所在地の地名は暗記させられたものだが、今日の小学校では、そこまでやらないのだろうか。先日もテレビのクイズ番組で、地図上に示された県名を解答する問題で、いい大人達が何人も正解できす、苦心しているのには、驚かされたことであった。
しかし考えてみれば、我々の頃は、日本地理で学ぶ交通機関は極言すれば、鉄道が全てで、それも新幹線などはなく在来線のみであった。今では二十四時間高速道路を車が走り続けている。また、ビジネスではもとより、レジャーでも飛行機を利用する人も夥しい。
思えば、地理に限らずあらゆる分野で、今の若い人たちは、身に付けなければならない知識が、私たちの時代とは、較べものにならないくらい膨大なものになっている。してみると、我々の世代の常識と今日の現役世代の常識とでは、少なからぬずれが生じているのは当然のことと理解すべきことなのかも知れない。
f 吸い取り紙・腕カバー
戦後、会社の事務でもペンを使かっていたが、インク壺のインクをペン先につけて、書類に字を書くと、紙面についたインクか乾くには、ちょっと時間がかかる。その間に、人の手や袖囗がふれると、書類を汚すおそれがある。そこで、すぐ次の作業にかかれるように、書いた宇の余分なインクを吸い取るためのインク吸取紙があった。ボールペンという便利なものが現れるまでは、もっぱらペンとインクで書類は作成されていたので、吸取紙は必需品であり、素早く吸い取るために、木製半円形のものに吸取紙をはめ、スタンプのような把手の付いた専用の器具もあった。昔は手紙もインクをつけたペンで書いていたから、市販の便箋の表紙の裏には、必ず吸取紙が一枚付けられていたものだ。今のはどうだろうかと思い、手持ちの便箋を取り出して見たが、果たして吸い取り紙は付いていなかった。
ペンを使用しなくなったので、今日では滅多に見かけなくなったものに、腕カバーがある。昔は記帳することの多い経理担当者などは、上着の袖口がインクで汚れないように、腕カバーをしていた。
腕カバー姿で思い出されるのは、麻生の労務畑に居た能筆家の西松重栄さんである。彼は何時も腕カバーをしていたが、軸からペン先までガラス製のペンを使用して見事な字を書いていた。当時もガラスペンを使う人は少なかったようだが、今でもあるのだろうか。
g ボールペン・万年筆
ボールペンが一般に出回ったのは、昭和二十年代後半のことだったろうか、私には、定かな記憶が無い。
今日のボールペンの多くは、キャップ付かノック式で使わない時は、先端部分が露出せず乾燥しないように出来ている。また軸の部分が透明に作られ、インクの残存量が見える仕組みになっている。だから、まだインクが残っているのに字が書けないのは、先端を露出したまま放置していたためであることがすぐ分かる。当初のものは、そうした構造になっていなかったので、書いてもインクが出ないとき、すでに使い切ったものか、先端が乾燥しただけのことか判別出来なかった。
なお、私が現役の頃は、たしか公文書はボールペンの使用が認められてなかったように記憶している。今ではどうなっているのだろう。毎年税務署に提出する確定申告はボールペンで書いているが、突き返されないところをみると、差し支えないことになったのかも知れない。
度々ペン先にインクをつけねばならない煩わしさから解放してくれたものに万年筆がある。シャープペンシルと同様に胸のポケッ卜に差し込んで、何処にでも携行出来る便利なものであるが、時折スポイトを使ってインクを補充する煩わしさがあり、たまにはインク漏れして、上着を汚すこともあった。とりわけ飛行機の中では、気圧の変化でインク漏れがするからと、初めて外遊するとき、先輩から教えられたことがあった。
今では万年筆も便利なカートリッジ式のものになっているようだが、私は使用したことがないので、その効用はよく分からない。
司馬遼太郎・松本清張・新田次郎・城山三郎・藤沢周平といった昭和の代表的作家は、みなさん愛用の万年筆で、名作を書かれて居られたようで、それぞれの記念館などに遺品として展示されているらしい。今日の若い作家はパソコンを使用する人が多いと聞いているが、彼らは万年筆ならぬ愛用のパソコンを遺品として残すようなことになるのだろうか。
h 毛 筆
鉛筆やペンなどは、明治維新以後、西洋文明とともにわが国に入って来たもので、それまで長い間日本人は毛筆を使って来た。今日、日常毛筆を使うことは、ほとんど無くなったが、役所の表札や式場の案内板などは、毛筆による見事な字が書かれている。また筆達者な方は今でも年賀状や暑中見舞いなどに達筆を揮って居られる。
昭和三十四年、麻生本社の文書課に勤務していたが、当時、社員へ渡す辞令は毛筆で書かれており、能筆家の広津ウメ女史が担当していた。ところが、その年彼女が難病に取り付かれ休職することとなった。彼女の他に毛筆をこなす課員が居ないので途端に困惑するはめになった。その時は毛筆に堪能な社員を他から補充して凌いだが、次第に毛筆の上手な社員は少なくなる時代、何時までも毛筆書きに固執出来なくなる虞れがある。そんなことで、人事担当の吉鹿常務にお願いして、ペン書きに改めさせて頂いた。今日のような毛筆書体も可能なワープロがあれば、あんな心配などしなくて済んだのにと思うところである。
昭和四十六年、(財)政策科学研究所に勤務していた時、セレモニーの案内状を発送する際、総務担当者が、宛名書きを、毛筆で書くプロに委託していた。今日では毛筆書体のワープロ印刷が一般化しているが、宛名を毛筆で書くプロは、なお存在しているのだろうか。
今年の正月、麻生太郎総理が、書き初めに「日本の底力」と揮毫されて居られるのをテレビで拝見した。私はかって麻生本社に勤務し、お若い頃の太郎さんを存じ上げているのだが、こんな見事な字を書かれるのを見るのは初めてで、びっくりした。総理が人知れず猛勉強をされておられるとは、かねて漏れ伺ってはいたものの、習字まで精進されておられるとは、感服の他はなかった。
もう十年以上も前のことになるが、当時小学生だった孫が習字塾へ通っていた。見ていると、習字用の半紙の束と墨汁のボトルを提げている。私が小学生の頃は、習字の練習は、もっぱら用済みの新聞紙を使い、清書するときだけ半紙に書いていたもので、学校へは新聞紙数枚と半紙一枚を持って行く慣わしであった。日本が豊かになったとは心得ているものの、多数の半紙を無造作に持って行くのにはびっくりした。
さらに驚いたのは、墨を磨ることなく、市販の墨汁を使用する習字である。私は生来の無器用で習字が大嫌いであったので、とやかく言う資格は無いが、習字をするときは、先ず姿勢を正し、心を落ち着けて、静かに墨を磨りおろすことから始めるようにと、繰り返し教えられていたものである。せっかちな私などは、硯(すずり)が割れんばかりに力を入れて強く磨っては、先生に注意されたものである。
なお、今日ではボールペンならぬ筆ペンがあり、新聞社が宣伝募集している生涯学習にも、筆ペン上達コースというのがあるようだ。
I ワープロ
中学では、習字は一年生の時だけで、二年生からは解放されてほっとしたことである、そんなことだから、私は悪筆のまま人生の終焉を迎えることになるが、二十年ばかり前、ワープロを使用することを覚えた。おかげで、今では他人様への書簡もワープロに頼り、自らの悪筆を人目に曝すことなきを得ている。
しかし、ワープロには漢字変換という落とし穴がある。手慣れた人達は、ディスプレイを見ながら、キーを押して居るので良いのだが、未熟な私は、常にキーを探しながらという有り様だから、ディスプレイを見る余裕は無い。だから「感心する」と入力したつもりが、「寒心する」などとなっていることがしばしばある。他人様への書簡などは特に画面の上で何度も校正しているのだが、それでも見落としがあって、後日あらためて謝らねばならないことも少なくない。
j 悪筆の嘆き
戦時中、歩兵部隊の事務係をさせられたことがある。
私は貧弱な体格で弱兵の見本のような兵卒であったから、一般兵としては使いものにならないので、事務室勤務に回されたと言うことだったのだろう。ところがよろず無器用で悪筆の私には、上官も呆れたに違いない。
私に与えられた仕事は、部隊所属の下士官・兵卒の功績名簿の記載並びに、関係先への連絡文書の作成及び受発信などであった。いずれも書類作成を伴う業務で、悪筆の私には毎日が苦痛の連続であった。
私の上司に松尾伍長と言う方が居られた。杭州湾上陸以来、中国各地を転戦して来た歴戦の勇士で、体格は小柄ながら、射撃も銃剣術も得意としていたようだが、沙婆では銀行員をしていたとかで、算盤も達者、筆跡も見事な優秀な事務屋でもあった。その松尾伍長が、ある日私に次のように言われた。
「書類作成のために書く字は、達筆である必要はないが、誰が見ても分かりやすい字を書くことが大切だ。下手な人ほど崩した字を書く。下手なことを誤魔化したつもりだろうが、これでは字が汚い上に分かりにくい。下手でも良いから楷書で丁寧に書くように・・・」実に耳の痛い話であったが、叱責するのではなく諄々と諭される言葉は、私の心に深く染み込んだ。それ以来私は努めてその教えを守るように心がけて来た。おかげで以前よりは、他人様が見ても分かりやすい字が書けるようにはなったが、急ぎを要する時などは、つい本性が出て、汚い崩し字を書いてしまう癖は未だに治らない。
k 色鉛筆
小学校のとき、先生はテストの採点を赤い色鉛筆でされていた。全問正解の答案用紙には、先生は算用数字の100の下に二本アンダーラインを書いて下さったが、ときには更に二重丸まで添えられていたこともあった。
そんな答案用紙を返して貰ったときの嬉しさは、八十年後の今でも、ほのぼのとした気持ちにしてくれる。
後に一本で赤と青二色の色鉛筆が見られるようになったが、赤の方は同級生とテストの交換採点や、参考書のアンダーラインなどに使用したが、青はあまり使う機会が無く、いつも赤色が早く無くなり、青ばかりが残っていたようだ。
六色の色鉛筆ケースを手にしたのは何時のことだったろうか、定かな記憶はないが、地理の宿題で海・山や平野などを色分けする地図を書かされていた時。緑や茶色の色鉛筆も使っていたようだから、小学校六年生(昭和九年)の時には、与えられていたに違いない。
余談になるが、初めて地図を見たとき、田圃や畑のある平地が緑色で、木の生い茂る山地は茶色となっているのは、どうしてだろうと思ったことである。怠惰な私はその疑問を解明することなく過ごしてきたが、先頃、地図の色分けは西洋文明と一緒に入ってきたもので、ヨーロッパの山は岩山や禿山が多く。平地は牧草地となっているため、あのようなことになったのだと書かれているのを何かで見て、納得した。そういえば先日テレビで紹介されていた伊能忠敬の描いた日本地図では、山は緑色に塗られていたようだ。
I 絵画用具
小学校の図画では、クレヨンを使っていたが、色の種類は、六色だったか八色であったか、はっきりした記憶は無いが、いずれにしても、色の種類は、あまり多くは無かったように思う。使う色に片寄りがあり、早く無くなった色の補充はどうしていたのか。当時、ばら売りのクレヨンがあったのか、そのあたりのこともよく憶えていない。
クレヨンより少し軟らかいクレパスを使って描くこともあったが、ごく僅かな間で、やがて高学年になり、パレットの上で絵具(えのぐ)を水で溶かし、絵筆で描く水彩画を描かされることになった。
水彩画では、異なる色を混ぜて新しい色を作ることも教えられたが、友達は巧みに混色して素晴らしい絵に仕上げるのに、画才の無い私がやると、自分でも見苦しい色となるばかりで、中学の時、杉田先生から、「君は色盲かね」と言われ、屈辱的な思いをしたこともあった。
ramtha / 2016年5月15日