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六、衣類・履物・雨具など(⑧ 戦後の衣服事情など)

⑧ 戦後の衣服事情など

昭和二十年八月十五日、本土防衛部隊に所属していた私は、鹿児島県大隅半島の山奥で、終戦を迎えた。やがて部隊は、軍旗や機密書類などを焼却して山を下り、都城の青年学校に集結していたが、九月下旬、解散、それぞれ故郷に復員することとなった。部隊解散時、兵器は占領軍に引き渡すべく一カ所に集積されたが、それまで備蓄していた食糧や衣服などは、復員する兵士に分配された。私も乾パン・缶詰め・着用している軍服のほか、軍隊用語で襦袢・袴下と言われるシャツ・ズボン下を数着、軍用靴下数足・軍靴(グンカ)数足など、布製の背嚢と天幕に入り切れないほど与えられたことであった。

国鉄は何とか運行していたが、長年の戦争による荒廃と米軍の空襲で客車が不足していたのだろう、真暗な貨物列車の床に腰を下ろし、夜通し揺られて復員した。

都城から北上する日豊線は単線運行である上、終戦直後の混乱でダイヤも乱れていたのだろう、前日夕刻出発したのに、我が家のある大分県臼杵駅に到着したのは、翌日の昼頃であった。通常の速度であれば、臼杵到着は深夜の筈で、大きな袋を担いだ敗残兵の姿を、人目に曝さなくて済んだものをと、恨めしく思ったが仕方がない。なるべく知った人に会わぬよう裏通りを選び、俯き加減に帰宅したことが思い出される。

我が家に帰って見ると、戦中の物資不足に耐えてきた家族は、私が持ち帰った米や乾パンなどに、驚いていた。ことに乾パンの袋に入っている金平糖(コンペイトウ)の甘味は珍しく、忽ち食べ尽くしてしまった。

戦後もしばらくは食糧統制が続き、街の住民は手持ちの衣類を交換材料として、農家から食糧を分けてもらう状態に変わりはなかった。そんな中で、私が持ち帰った軍隊の衣類や靴は、家族の食糧確保に大いに役に立ったようであった。

しかし考えてみると、部隊の所有していた物資は、部隊の活動目的を達成するために、国民の血税で購われたものである。終戦で部隊を解散し、その目的が失われたとき、国庫に返還せず復員する隊員に分配したのは、許されることであったのか、今にして疑問に思われてくる。

当時の処置は部隊長の判断でなされたものか、もっと上層部の指示によるものであったのか、一兵卒に過ぎなかった私には分からない。しかし、いずれにしても、上官の指示にひたすら従うよう躾られた軍隊生活で、私達の分別はすでに麻痺しており、何の疑問を感じることもなく、受け取ったことであった。

復員した翌月、私は麻生鉱業(株)に入社、上三緒炭坑の独身寮で暮らすこととなった。寮生はほとんど復員軍人で、復員服で暮らしていた。現場従業員は作業服に脚絆を巻き、地下足袋を履いて坑内に入っていた。

事務所勤務の者も大半が復員服や戦時中の国防服を着て居り、背広姿などは、見かけなかった。女性もほとんどがまだもんぺを穿いて居た。

戦後経済の急速な復興を目指し、政府はいわゆる傾斜生産方式をとり、石炭・鉄鋼・肥料など基礎的物資を確保するため、それらの産業に従事する者には、俗に加配米と言われた主食の特別配給が行なわれた。だから、当時の炭坑は他に比べて食糧事情は恵まれて居た。おかげで、私のような独身者は、粗末な食事ながらも、ひもじい思いはしなくて済んだ。しかし、育ち盛りの子供を抱える家庭では、やはり闇米などを手に入れるため、衣料品を手放す筍生活を余儀なくされて居たようである。

(註)筍生活(たけのこせいかつ)=竹の子の皮をはぐように、衣類その他の所有品を売、て生活費に当てる暮らし。

昭和二十一年、私は本社企画室に勤務していたが、ある日、米軍の放出した中古衣料が、社内でも無料配布されたことがあった。その時私は何を手に入れたか記憶がないが、友人のK君が夏物の半ズボンを手に入れて、いたく気に入ったようであった。体格の大きいアメリカ人の衣服はいずれも日本人にはサイズが大きく、裾を上げるなど、手直しをしなければ、すぐには使えない。それなのに、仲間内でも小柄なK君にぴったりというのはおかしい。それはきっとアメリカの子供のお古ではないかと、みんなからからかわれていたが、彼は平然と着用していたのには感心した。

昭和二十四年、わが家では長女が生まれたが、今時のような使い捨ての紙おむつがあるわけではなく、当時はどこの家庭でもしていたように、家内が実家の浴衣などの古着を貰ってほどき、おしめを作り、産衣(うぶぎ)は生地を買ってきて手作りした。その時、私の月給がまだ何千円というのに、僅かなネルの生地が五百円もしたとは、今も昔語りの度にする家内の一つ話である。

昭和二十五年五月、政府は綿製品を除きスフ・毛などの価格統制令を撤廃しているが、庶民の衣服はまだまだ粗末なもので、親が着古した服を仕立て直して子供が着るなどしていた。当時、麻生本社には、社員の福祉厚生施設として、ラジオ修理工・理髪職人とともに洋服の仕立て直しをする職人が居た。

(註)スフ=ステープルファイバーの略。人造繊維を短く切り、適当なカールをつけたもの。また、それを紡績した糸・織物をいう。人造綿花。

昭和二十五年六月、朝鮮戦争が勃発、二十八年七月休戦協定調印まで、北朝鮮と韓国は、それぞれ中国とアメリカの支援を受けて、朝鮮半島の大半を焦土と化す激しい戦闘を行なった。日本ではこの間、俗に言う特需景気に恵まれ、庶民の生活も次第に向上し、背広姿のサラリーマンも、多く見られるようになって来た。

(註)特需(トクジュ=特別な需要。一般に在日米軍が日本で調達する物資・役務に対する需要をいう。

戦後、男の服装にもジャンパーやジーンズが現れるなどアメリカンスタイルの影響で、ずいぷんと変化してきた。また、以前は無かったファスナーがボタン代わりに、いろいろなところに使われるようになってきたこと、男の象徴であった褌が博多祇園の山笠担ぎでしか見られなくなったこと、かつて見られたズボンの裾の折り返しが無くなったこと。化繊の出現でズボンが丸洗い出来るようになったことなども、目立たない大きな変化である。

戦後六十年間、男性の服装もずいぷんと変化しているが、それにもまして女性のファッションの目まぐるしい変化は、とても私などに捉えられるものではない。

昭和二十四年頃のことだったと思うが、麻生本社の女性事務員の一人が、初めてノースリーブの姿で出社してきた。会社では、かつて見たことも無いことだったから、男性社員の注目を集めたことは言うまでもない。

当時、私は庶務課の末席にいたが、日頃謹厳そのもので、社員の身だしなみに喧しい課長代理の矢野與四郎さんが、黙って居る筈はないと思って、注視していた。すると果たして本人を呼びつけ注意をされていた。

今日では、もっと露出度の過激な女性の姿が、巷にもテレビの画面の上でも、溢れているが、もはやそれは当たり前の風景で、騒がれることもない。私のような前世紀の人類が、そこに世相の変遷を見て、感慨を催すのみである。

戦時中は「欲しがりません勝つまでは」と、我慢を強いられ、子供のときから「贅沢は敵」と教えられて来た世代が、終戦を境に禁欲生活から解放され、やがて大量生産、大量消費の時代に入り、「贅沢は素敵」と、ひたすら華やかなニューファッションを追い続けて来た。

しかし平成二十年、リーマンブラザーズの破綻に始まる百年に一度と言われる世界的不況の到来で、世の中は大きな曲り角にさしかかっているようである。

さらに、地球温暖化を憂慮する環境重視の思潮が喧伝され、リサイクルやフリーマーケットなどのニュースがしきりと伝えられるようになって来ているが、再び「贅沢は敵」ということになるのか、それとも物離れした贅沢が求められることになるのだろうか。残念ながら、私にはそれを見届ける時間は残されていないようだ。

ramtha / 2016年4月26日