今日の毎日新聞には、中国総局・西岡省二氏の「ニーハオトイレ」と題する次のようコラムが載っている。
中国旅行を考える日本の友人たちから、きまってこう聞かれる。「そっちのトイレは大丈夫か?」。心配の種は、かの「ニーハオトイレ」である。
昔ながらの住宅は共用トイレが多い。しかも「和式」。仕切りはなく、あっても低い。しゃがみながら隣の人に「ニーハオ」と挨拶できるため、この名がつく。中国の友人が念押しする。「排泄は恥ずかしい行為ではない」。
今、中国で「トイレ革命」が進む。仕切りの要・不要はさておき、トイレの汚さは外国人客を苦しめる。習近平国家主席も「揺るぎなく推進せよ」と危機感を募らせるほどだ。昨年の新設・改修は二万二千ヵ所、今年は二万五千ヵ所に上る。
革命には先駆者も現れた。山西省太原の食堂。男性用小便器の前にセクシーな女性の人形が立ち、妖艶な視線を投げかける。前衛的であり、不可解である。
最近、友人のいる集合住宅のトイレが改修された。「とても清潔」と案内されたそこには、やはり仕切りはなかった。横一列に座った住民たちがスマートフォンをみたり、通話を楽しんでいたりしていた。
貧困であるがゆえに仕切りがないわけではない。
経済発展を遂げた今もニーハオ式は息づく。所変われば文化も違う。日中間の壁、取り払うべきものもあれば、作ってほしいものもある。
ニーハオートイレは、中国に行ったことのない私は初めて知った。この話で思い出したのが、昭和二四~五年頃の炭坑の鉱員社宅の共同トイレである。
当時、私は麻生・吉隈炭坑に勤務していた。私たち職員の社宅は二軒長屋で、トイレは各戸に設けられていたが、風呂のあるのは係長以上の幹部社宅だけで、平社員は男女の別はあるものの、職員用の共同浴場を利用してた。
鉱員住宅は確か六軒長屋で、トイレは住居と別に設けられた共同トイレを使用することとなっていた。男女の区別はあったかどうか、覚えていないが、道路脇にあるトイレの扉はコスト節約のためか、中にしゃがむ人の頭と足下が見えるほどの短いものであった。だから、その道を通らねばならない時は、急ぎ足で通り過ぎるようにしていた。
屋外にあるトイレだから、雨の日や夜中に利用するには。誰しもわずらわしい思いをしたに違いない。それにしても、あのトイレを使用しなければならない女性は、その度に、ずいぶん嫌な思いをしていたことと想われた。
今時の人には想像もつかないだろうが、プライバシーなどという言葉も無かったその頃は、吉隈炭鉱に限らず、日本の炭坑社宅街の風景は、そのようなものであった。
まもなく、鉱員社宅もトイレ付の二軒長屋に少しずつ改善されては行ったが、それもほどなく石炭斜陽化の波に押し流されてしまった。
あれから七〇年ばかり、日本の炭坑は全て無くなり、今では「筑豊富士」と呼ばれた忠隈炭坑の「ボタ山」もすっかり緑に覆われ、筑豊の代表的「ボタ山」であったことを知る人も殆ど居なくなってしまった。
(注)ボタ=炭鉱で、選炭した唆に残る岩石や粗悪な石炭(広辞苑より)
ramtha / 2016年6月27日