十四日夜から十五日未明にかけて熊本県益城町を中心とする巨大地震が発生した。私の住む飯塚市でも震度三の揺れで目が覚めた。近頃にない強く長い振動で、不安にかられたが、五体不自由の老骨ではどうしようもない。ひたすら地震の治まるのを寝床の中で待つことにしたが、幸い小さな余震は何度かあったものの、事無くおさまった。朝のテレビで熊本城の屋根瓦が雪崩落ちる光景を見て、今回の地震の大きさに驚いたことである。
それにしても死者四十数名、倒壊家屋無数と聞いては、一瞬にして家族や住居を失われた被災者の嘆き悲しみに、胸も裂かれる思いをさせられたが、どうしようもない。
今日の毎日新聞では「DMAT2チームを派遣」と題して、飯塚病院の活躍を次のように伝えている。
これを見て、災害時の救急医療支援体制を整え日頃からその訓練を怠らず繰り返し行なっていたことが窺われ、その成果が今回大いに役立ったことと想われた。かつて飯塚病院を経営する(株)麻生に勤務した者としては、我がことのように誇らしく感じられる話題で、書き留めることにする。
飯塚病院は十四日以降、「DMAT」ニチームを相次いで派遣。第一陣として一五日早朝から現地で活動した。救急集中治療が専門の鮎川勝彦・特認副院長(六一)が十八日記者会見した。
(注)DMAT=Disaster Medical Assistance Team:災害医療支援チーム。
鮎川さんは十五日未明、看護士三人と事務調整員一人を伴い救急車で熊本に向かった。午前五時ごろ活動拠点の熊本赤十字病院(熊本市東区)に到着。「駐車場などが陥没し、建物も倒壊寸前だった」という熊本県益城町内の病院から、高齢の女性患者を別の病院へ移送した。
十六日未明の本震の時は、熊本赤十字病院の会議室で仮眠中。「ドンと激しい突き上げがあって飛び起きた」。一時間ほどで病院の外来には負傷者が殺到。鮎川さんもトリアージ(重症度で治療の順番を決める行為)や傷口の縫合にあたった。その後も、スプリンクラーの放水で水浸しになった同県大津町の病院から入院患者の移送などを担当した。
鮎川さんは、「日頃の訓練のお陰で、病院が傾き亀裂が入った中でも整然と仕事をこなせた」と振り返った。かつて、飯塚病院が学会に提唱した、重症度に応じ医療担当者の受け持ちを色分けで表示する「アクションカード」が取り入れられていたことに「感激した」とも述べた。
ramtha / 2016年6月30日