今月十四日夜発生した熊本地震は、十日経ってもまだ余震が治まらない。首都圏に在住していた時は、震度三以下の揺れはしばしば体感していたので、九州は地震の少ないところと思い込んでいた家内は、「熊本で地震なんて初めてのことじゃない」などと言っていた。
ところが、今日の毎日新聞によれば、一二七年前の明治二二年七月二八日にも、活断層が震源とみられる推定マグニチュード六・三の地震に見舞われている。まだ通信手段もお粗末な当時の新聞報道の苦労を次のように記している。貴重な歴史記録として転記しておく。
熊本地震の被災地域は一二七年前の一八八九(明治二二)年にも活断層が震源と見られる推定マグニチュ-ド六・三の地震に見舞われていた。明治維新後の日本が近代化を推し進めていた時期であり、「科学的調査が実施された直下型地震の第一号」と位置付ける研究者もいる。
今回と同様に余震が続き、家屋倒壊を恐れた人々が野宿をしたという明治の震災。黎明期の新聞にとっても、その役割が試される現場となった。
「地大(い)に震ふ」
地元紙・九州日日新聞(熊本日日新聞の前身)は同年七月三〇日の一面トップで、同二八日深夜に発生した地震の詳報を伝えた。前日には既に号外で速報していたが、三十日の紙面は「(熊本市内は)皆夢を破られ肝を奪はれ裸体のまま飛び出す者も」など臨場感ある記事を掲載した。現在の報道と同様に死傷者、インフラ被害などの基本情報に加え、家屋被害は「殆ど失火」との分析もしている。国立科学博物館地震資料室によると、日本では地震学会が一八八〇(明治一三)年に発足したばかり。この地震は近代初の都市型地震で震源は熊本市の西、被害は死者二十人、全壊建物二三九棟。地震研究者の表俊一郎、久保寺章両氏は活断層の一部が活動したと推定する。余震は長期間続き、ほぼ終息したのは八九年十二月三一日だった。
この災害に明治の新聞人たちは挑んだ。両氏共著「都市直下地震-熊本地震から兵庫県南部地震まで」によると、当時の熊本県での発行紙は四紙。報道方針について同八月二五日の熊本新聞は「新聞は自己の手際をあらわすを主とせず」「精確なる事実をなるべく網羅」「衆人に示す」と宣言した。
一方で同紙は読者を引きつけるための「奇事異聞」の記事は誤報につながると自身を戒めている。そこには新聞報道の苦い経験があったようだ。例えば九州日日新聞は発災直後の七月三十日号外で、熊本市の金峯山周辺の集落が壊滅したとの情報があると速報した。ところが社員を特派すると誤報と分かり、訂正のための号外を出した。
「金峯山破裂(噴火)」のうわさは市民に相当流布していたようだ。帝国大学理科大学(現・東京理科大学)の研究者らが調査結果に基づき、同八月三日に「安全宣言」をした。各紙が直ちに号外を出したことで沈静化につながったという。これは災害時の新聞の役割を示す好例となった。研究者らは余震の観測を続け、震源など地震の解析を進めた。
この地震の情報は当時の最新技術で全国に広がった。毎日新聞の前身である大阪毎日新聞は大正期になるまで、九州に取材拠点がなかった。それでも電報を駆使し、同八月一日紙面で「九州の大地震」を詳報する。本格的な震災報道を経験した新聞はその後、日清、日露の両戦争で速報性をさらに高めていくことになる。
余談だが、右の記事に登場する地震研究者・表俊一郎氏の名前に約八十年ぶりに接し、びっくりした。表俊一郎氏は、実は私の小学校(北九州市戸畑の私立明治小学校)の同級生表栄光さんの実兄で、当時東大で地震学を研究されている秀才で、お手本とすべき先輩と、度々聞かされていたからである。栄光さんも三十年ばかり前他界し、この話を伝えることもできないのは、まことに寂しいかぎりである。
ramtha / 2016年6月30日