日本はいまや世界一の長寿国となり、少子高齢化が急速にすすんでいる。老人を巡る問題がマスコミでもしばしば取り上げられている。先日もテレビで老人性痴呆症いわゆるボケ老人の介護に苦労している家族の姿が映し出されていた。ボケの甚だしい場合は、自分の住所氏名まで忘れてしまうこともあるようだ。自分はそんなことにはならないぞと思いながらも、年毎に物忘れの著しくなってきた我身を顧みると、いささか自信がぐらついてくる。せいぜいボケないように、頭の体操のつもりで、ポケにまつわる漢字をたずねてみることにする。
若くして故人となった才媛有吉佐和子の小説「恍惚の人」が発表されて以来、恍惚はボケの代名詞になった観があるが、恍惚(コウコツ)とは、もともと物事に心を奪われてウットリとした状態を言う。
「恍」(コウ)を辞典にたずねてみたが、①ほのか。かすか。②われを忘れてぼーっとしているさま。など字義が述べられているだけで、作字発想を窺わせる解字は示されていない。しかし、心が意符、光が音符の形声文字であることは明らかだ。
「光」(コウ=ひかり)については、火と儿(人)との合字で、人が高く火をかざした形。明るく照らす火、ひいてヒカリを表わすとする説。
「光」の古字は「」と書き、上部は「革」の上部のものと同じで、獣の頭を表わし、これを燃やすと脂がにじみ出て黄色の色を発して燃える。それを表わすのが「光」であるとする説がある。といずれにしても「光」はヒカリを示しているものの、「光」と「心」で、どうしてぼーっとしていることになるのだろう。
太陽光線など強い光を直視すると、目が眩んで目先がぼーっとしてくる。そういうところから心のぼーっとした状態を「恍」をもって表現したのかも知れない。
「惚」(コツ)は忽(コツ=にわか、すみやか、突然)を音符としている。
勿(ブツーモチ)は、後世一般に〈・・・する勿れ〉というように、もっぱら否定の言葉として用いられるようになったが、もとは大夫や士が民を召集するための旗の形にかたどった象形文字。勹は旗の柄、彡は三本の吹き流しをかたどったものという。
藤堂先生によれば、この旗は、こまごました雑巾でこしらえた旗で、色も形も統一がなく見えにくいことから「忽」は〈見えない、ぼんやり〉を表わし、また知らぬ間に起こることを意味するタチマチになったという。
こうしてみると、「愡」は予期しない突然の事象に遭遇して呆然とすることだろう。そういえば、一目惚れというのも、予期しない美人に出会ってぼーっとすることに違いない。
老いのボケも、昨日までしっかりしていたと想われる老人が、突然奇矯な行動をはじめるといったケースが多いようである。
ボケルは、もとホウケル、ホケルに発した言葉で、広辞苑では惚ける、耄ける、呆けると三通りの漢字が当てられている。
「耄」(ボウーモウ)は、老(としより・おいる)を意符、毛(モウ)を音符とする形声文字だが、毛は本来老人の細い髪の毛を表わす象形文字。老と毛とで年老いた状態を強調したものと想われる。
頭脳、身体の老衰することを耄碌(モウロク)するとも言うが、これは和製熟語のようである。ちなみに碌の字は「碌々」(ロクロク)と重複して使われ、
①小石の多いさま。②平凡なさま、役に立たぬさま。を表わしている。
そうしてみると、耄碌とは、駿馬も老いては駄馬にも劣るということであろうか。
「呆」(ホウ)の古宇は、赤ん坊にオムツを当てた姿の象形文字で、外側を覆って保護する意味を表わしたもの。今日の「保」の原字である。その「呆」がどうして「阿呆」(アホウ=愚か)の意を表わすようになったのか、辞典にも説明されてない。おそらく、発育が遅れ、いつ迄もオムツのとれない子を「呆」といい、広く知能の未熟なことを言うようになったのではないか。
なお、わが国では「呆」をアキレルと訓み、また「呆気(あっけ)に取られる」や「呆然(ボウゼン)とする」などの熟語ともなっているが、あまりの馬鹿馬鹿しさにアキレルといったところがその源ではないだろうか。
いずれにしても「呆」はオシメをした形が原形だから、老衰してオシメを必要とするようになればボケタといわれても致し方ない。
ramtha / 2016年7月4日