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七.食べ物のことなど(③ 外食について)

③ 外食について

さきに戦時中の外食券について記したように、街中の蕎麦屋や食堂で食事をすることは、ずいぶん昔からあり、外食と言う言葉も使われていた。ところが、何時ぞやテレビで、世の中不況続きで庶民の懐も厳しくなるにつれ、今までは外食していた者も、我が家で料理したり、弁当などの出来合い料理を買ってきて食事することで、食費を節約する人が多くなって来たようだと伝えられていた。

その話の中で、「外食」に対してわが家製の食事をするのを「家食」、弁当など出来合い料理を買って来て食事するのを「内食」と言われていると聞き、また一つ新しい言葉を知るとともに、世の移り変わりを教えられたことであった。

日本の家庭が核家族化したと言われるようになってずいぶんなるし、ことに最近では、一人暮らしの老人が多くなったと伝えられている。そういう家庭では、少人数の食事を作るのは、手間もかかるし、食べ残りが出来て、終には捨ててしまうことも少なくない。だから、コンビニなどで手頃な分量、パックされた既製品を買って来る方が、便利で経済的でもある。老夫婦暮らしの我が家でも。お互い少食になったことでもあり、家内の老齢化とともに、言われる所の「内食」に頼ることが多くなってきた。また休日など、かつては子供連れで回転寿司やハンバーガーショップなどで外食を楽しんでいた次男家族も、次男の昇給が抑えられるようになってからは、控え目にしているようである。

そう言えば、全国到る所で見かける有名ファミリーレストランが、顧客の減少で苦戦しているなどと言うニュースも報じられていたようだ。

a 外食の珍しかった昭和初期

外食産業は、すでに過当競争になっているのだろう。飯塚のような地方都市でも、うどん屋、ラーメン屋、大衆食堂、レストラン・・・と、さまざまな飲食店がやたらと目に付く。私の子供の頃、昭和の初期でも蕎麦屋や食堂などあるのはあったが、こんなに沢山は無かったようだ。その頃、そうした店を利用するのは、旅行者か外回りを職業とする者ぐらいではなかったかと思う。

今日では平日でも家族連れで外食するなど珍しいことではないが、当時の庶民の暮らしでは、まず無かったと言っていい。私が親に連れられて外食したのは、小学校何年生の時だったろうか、小倉で初めて出来たデパート井筒屋の食堂が、私にとって唯一の経験である。

姉や兄も一緒であったか、せがんで止まない私一人連れて行って貰ったのか、そのあたりは定かでない。何を食べさせてもらったかも覚えていないが、初めて使うナイフとフォークに、ずいぶん苦労した記億が残っているところをみると、洋定食のようなものだったのだろう。

b 外食ご法度の中学時代

先日、中学生と思われる学生服姿の女の子が数人、談笑しながら蕎麦屋の暖簾を潜って店から出てくるのを見かけたが、戦前には見られなかった光景である。
私が旧制中学に通学して居た昭和十年頃当時、中学生も女学生も、映画館、劇場はもとより、食堂や飲食店も親同伴の場合を除き、入場禁止となっていた。しかし禁止令にはその網の目を潜る者が必ずあるように、生徒の中には、これに違反する者も少なからず居たが、それは人目を忍んでのことであった。

当時の北九州では、そうした違反生徒を取り締まるため、先生達による教護連盟なるものがあり、目を光らせていた。女学校の教員であった私の父も、時折、監視のため夜の映画館などに行っていた。そんなことで、教護連盟の巡回コースなど私が知るわけはないのに、上級生から「お前の親父は今夜どこに行くのか」と聞かれ、困惑したことも幾度かあった。

私自身、映画館(当時は活動写真館と言われていた)にも、食堂にも入ってみたい気持ちは少なからずあったが、教員の子である私は、終に足を入れることは出来なかった。

確か買食いも禁止されていたと思うが、こちらはそれほど厳しくなかったのではないか。野球部員など運動選手達が激しい練習後、下校途中の店で買、た今川焼(われわれのところでは回転饅頭と呼んでいた)を頬張りながら帰って行く姿は、残照の空を背景にした昭和の風景として、今も私の脳裏に焼き付いている。

C 亦楽齋と福岡亭

昭和十四年、旧制福岡高校に入学した。学内にはうどんや稲荷寿司などを提供する亦楽齋(エキラクサイ)と言う簡易食堂が設けられていた。前述のように、買食いも御法度(ごはっと)の中学生生活から解放された直後であったので、休み時間に亦楽齋のうどんを食べるのは格別の楽しみであった。

ある日、例によって十分休みに、亦楽齋に飛び込み、注文したうどんに、七昧胡椒を振りかけたところ、蓋がはずれて、ゴソッと山のようにかかってしまった。

割箸の先で、のけられるだけの胡椒をのけてみたが、すでに汁の中に拡散してしまったものは、どうしょうもない。一面真赤に染まったうどんは、とても食べられそうもないが、大枚五銭を投じたうどんだ、諦めきれない。

フーフーいいながら無理して食べたのは良かったが、次のドイツ語の時間中、口腔内はおろか唇までも腫れ上がってしまった。

先日、本町のうどん屋で胡椒をかけながら、あのとき横で一緒にうどんを食べながら、「いい加減で止めろよ」と忠告してくれたのは、誰だったのか思い出そうとしたが、思い出せなかった。亦楽齋のチビのおやじと肥ったおばさん、そうそう蚤の夫婦とか誰かが言ってたな。その二人が心配そうに私の口元を見ていた姿は、はっきりと浮かんで来た。

福高の正門前に、福高生なじみの福岡亭、通称亭(チン)という食堂があった。色の黒い亭主は、もっぱら出前で、何時も忙しく店を出入りして居り、店の中は色白美人の女将(おかみ)が、妹と覚しき女の子二人を指揮して切り回していた。

女将の本名は静子とでも言うことだったのだろうか、常連の誰しもがCちゃんと呼んでいた。二人の女の子の名は分からなかったが。学生はみな年齢順にDちゃんEちゃんと呼び、彼女らもそれに対して、違和感なく応答していた。

ここもしばしば利用したが、確かぜんざい(関東で言う田舎汁粉)や丸天うどんが一杯十銭、カレーライスやハヤシライスは一皿二十銭ではなかったろうか、なお、ここでは掛(かけ)が出来たので、送金を待つ寮生など、懐が寂しくなったとき、「Cちゃん、今日は付けで」と頼むと、「アイヨ」と気軽に承諾してくれていた。

福高卒業後は東京での学生生活、学徒出陣による軍隊生活、戦後の炭鉱暮らしと慌ただしく時が経過する中で、あれほどお世話になった福岡亭も、幾度となく支払いを待ってくれたCちゃんのことも、すっかり忘れていた。

あれはもう四十年も昔のことになるのだろうか、ある夜のテレビの画面に、小説家檀一雄氏と対面、懐旧談を交わすCちゃんの姿を発見、大変驚いたことがある。

私より十年ばかり先輩となる擅氏も、福高生時代しばしば福岡亭を利用し、食堂の中程に据えられたストーブを取り囲み、友人達と賑やかに文学論を闘わしていたようである。当時を懐かしむ二人の会話は、昭和初期の青春を再現するものとして、とても懐かしく思われたことであった。流石に頭に多少白いものが見られるようではあったが、女将は昔ながらの美しいCちゃんであった。

d 博多の喫茶店

工業都市の北九州で育った私には、博多の街は殊更美しく感じられた。殊に岩田屋デパートのある天神町から県庁前・中洲を通り抜け呉服町に至る電車通りには、都会の雰囲気が感じられた。その通りが那珂川に架かる橋のたもとに、ブラジレイロという旨いコーヒーが自慢のレストランがあった。

丸いテーブルの中央には、調味料の壜と角砂糖を盛り上げた皿が置かれてあり、スマートな制服を纏ったウエイトレスがサービスしてくれるこの店は、高校生にとっては憧れのレストランであった。しかし、コーヒー一杯が三十銭?もするのでは、福岡亭のように再々利用するというわけにはいかない。私などは眺めるだけで店前を通り過ぎることの方が多かった。

なお、土居町の裏通りだったかに、リズムという音楽喫茶店があり、客の希望するレコードをかけてくれ、それを聞きながら、コーヒーを楽しむ店で、一度友達に連れられて入ったことがある。小さく薄暗い感じの店で、お客は我々のほかには中年の男性が一人、コーヒーカップを前に、私の知らないクラシック音楽に聞き入っている。深刻な顔つきで耳を傾けているその姿を見ると、こちらの話し声も憚(はばか)られる感じである。音楽に疎く、生来雑駁(ザッパク)な私は、その店のあまりにも上品な雰囲気に馴染めず、二度と利用したことはなかった。

また、電車通りに面してフルーツパーラーというフルーツポンチをメインとする喫茶店があった。そこで家庭教師先のお嬢さんにご馳走になったことがある。こちらは明るい店で、洒落たグラスに盛られた果物の中には私が初めて目にする珍しいものなどもあり、まことに美味しかったが、いかにも高級な店のようで、その後、足を運ぶようなことはなかった。
リズムもフルーツパーラーも福岡大空襲で焼失してしまったと、戦後聞かされた。

ブラジレイロやフルーツパーラーなどのことを思い起こしてみると、昭和十四年から十五年にかけては、太平洋戦争直前とは言いながら、博多の街はまだ平和の豊かさの中にあったと言えるのではないかと思う。

e 酒徒入門

福高に人学して間も無く、糸島の海岸で寮生全員による歓迎コンパが行なわれた。
日暮れとともに褌一つの姿になった寮生が、砂浜の上を輪になり、太鼓を叩き寮歌を絶叫しながら乱舞するストームが始まった。はじめてのことで分からぬままに上級生に見倣い踊っていると、上級生の一人に手を引かれ、そばに置かれてある酒樽の側に連れて行かれた。そして大きな柄杓(ヒシャク)で汲み上げた酒を無理矢理飲まされた。

我が家では父も酒を飲まなかったので、生まれて初めての経験であった。味も分からぬまま何度も飲まされる内に、意識は朦朧となり、気がついた時はテントの中に寝かされていた。

その内に寮の先輩に連れられて、中洲のおでん屋に通うことを憶え、後には同級生と語らって飲みに出掛けるようになった。

六本松の電停から中洲までの電車賃が四銭五厘であった当時、おでん屋の酒は燗壜(カンビン) 一本十銭、蒟蒻(コンニャク)と竹輪・大根などの煮染めを載せたおでん一皿が二十銭であった。だから五十銭銀貨一枚で、おでん一皿と酒三本とることが出来る。学友と二人五十銭銀貨一枚を握り締め、中洲まで歩いて行ったことも何度かあった。

中洲の飲み屋街は、細い道が迷路のように張り巡らされ、無数の小料理屋やおでん屋などが軒を連ねていた。しかし、福高生の入る店は、クラスによってきまっていた。それは入学した初めに寮の先輩から連れて行かれた店で、私たち文乙の学生はもっぱら十八番(おはこ)というおでん屋であった。

(註)旧制高校は文科・理科とも学習する第一外国語により、英語は甲類、ドイツ語は乙類、フランス語は丙類と、クラスが分かれていた。当時の福高の寮は、一棟二十室ある二階建て建物が六棟あり、文科の甲・乙・丙、理科の甲・乙と専攻学科毎に別棟に入居、一階に一年生、二階に二年生が入り、三年生は学科の区別なく全員玄寮と称する別棟に住んでいた。そんなことで、新入生が指導を受けるのは、同じ寮の二階に住む同じ学科の二年生であった。

十八番の女将は、年頃もわれわれの母親と同じぐらいではなかったかと思われるが、私たちも親子の様な気分で接していた。彼女は私たちにあまり深酒しないように注意したり、にわか雨に見舞われると、店を出るとき雨傘を貸してくれたりしたこともあった。

その時は考えてもみなかったが、女物ではなかったあの傘は、そうした時に備えての彼女の心配りであったに違いない。

十八番にはわれわれの他に、九大の学生やサラリーマンと思われる社会人の客があり、女将と親しげに話している姿も見られた、その会話から、客はかって福高に在学したわれわれの先輩であることが窺われることもしば
しばあった。中には、われわれに福高の教授の近況を尋ねだり、先生方のエピソードなど昔話を聞かせてくれ、果てはその夜の支払いを済ませてくれる先輩も居た。

昭和十八年十二月、私は学徒動員で福岡の歩兵二十四聯隊に入隊したが、翌年二月、初めての外出を許された。近くに自宅のあるものは、いそいそと我が家へ向かって行くが、大分県臼杵の自宅では、日帰りは出来ない。そこで学生時代の思い出を手繰って中洲を散策してみることにした。

博多の街は、まだ空襲は受けていなかったが、戦況は著しく傾き、陰欝な空気が漂う中、木枯らしに紙屑や砂埃が舞い上がる荒廃した風景が広がっていた。

どこへ行く当てもない私は、もはや廃業しているに違いないが、かっての十八番のたたずまいを見届けるべく中洲の裏通りを歩いて行った。夜になればまだ営業している店もあるのかも知れないが、日中は表を開けている家もなく、廃虚のような静かな道を通り、十八番の前までやってきた。だが果たして出入り口は閉められており、今も営業しているのかどうかも、分からない。人通りも無い道を折り返したとき、向こうから乳母車のような小さな手押し車を押しながらやってくる人が居る。近づいてみると、十八番のママではないか。

声をかけると、ママは立ち止まり、一瞬怪訝(ケゲン)な面持ちで軍服姿の私を見つめていたが、「まあ、佐藤さんじゃないの」と驚きの声を上げた。

彼女の話では、もう店はやっていないのだが、今日は中に残している食器などを自宅へ持ち帰るためにやってきたのだと言う。誘われるままに眷吉の住まいについて行き、彼女の手料理をご馳走になった。帰営までの短い時間ではあったが、昔話などして、久しぶりに娑婆の空気に浸り楽しい思いをすることが出来た。
その後、彼女に再会することなく、私は内地防衛部隊の一員として鹿児島県大隅へ移動させられた。

戦後、クラス会の席で級友の何人かに、女将の消息を尋ねてみたが、知っているものはいなかった、その時の話では、博多大空襲の夜、中洲の店も眷吉の住まいも灰塵に帰したのではないかと言うことであった。

f 芋ぜんざい

世の中の食糧事情が次第に厳しくなるにつれ、福岡亭のメニューでも、南方からの砂糖に頼るぜんざいなどは、いち早く姿を消した。

昭和十六年の暮れのことだった。浪人谷の下宿から程遠からぬ草ヶ江橋のたもとに、ぜんざいを食わせる店があると聞き、早速友達と駆けつけた。しかし、それは薩摩芋の入った芋ぜんざいに過ぎなかった。それでも、日頃甘味に飢えていた私たちは、その薩摩芋の甘味に満足した。今も石焼き芋の売り声を聞く度に思い出される。

g 東京での外食

昭和十七年、東京での学生生活を姶めた頃の食糧事情は一段と厳しくなっていたが、国産品を原料とする蕎麦屋などは、以前と変わりなく、吉祥寺駅前通りの蕎麦屋の暖簾は幾度となく潜ったことであった。

親子ほど違う年上の従姉妹に連れられて、珍しく銀座のレストランでご馳走になったこともあるが、どんな物を食べたか憶えていない。ただ主食が米の飯ではなく、小さなロールパンが二つ添えられていたことだけは記憶している。

銀座や渋谷・新宿などの喫茶店は値段が高そうで、利用したことは無かった。本郷や神田・須田町といった学生街には、ミルクホールと称するいかにも大衆的な飲食店があったので、喉が乾いた時などは、何度か利用したことがある。

東京での学生生活は、昭和十七年四月から翌年十一月までの僅か一年半ばかりのことであったし、伯母の家に下宿させてもらっていたので、外食することも少なく、思い出すこともあまり無い。

ただ一度、銀座のビヤホールで、各人ジョッキー杯だけ生ビールを飲ませてくれるという耳寄りな話を伝え聞き、友達と連れだって行った。
夕方五時開店とかで、店の前にはすでに長い行列か出来ていた。私たちもその後ろに並んで待っていた。すると、後ろの友達が私の背に身を寄せ「一杯目のビールは一気に飲んで、また行列の後ろにつけば二杯飲めるぞ」と囁く。鈍間(のろま)な私にそんな芸当は出来そうにもない。しかし日頃ビールなど滅多にお目にかかれない当時、二杯も飲めるとあれば、やってみるかと覚悟した。

順番が来て一杯目のジョッキが手渡されると、連れの友人は見る見る内に飲み干し、今一度行列すべく店を出て走って行く。まだ半分以上残っている私も、味わう余裕も無く慌てて残りを飲みあげて、彼の後を追いかける。ビールがまだ食道を下りている最中に走ったので、戻しそうになったが、なんとか我慢した。しかし、そんな苦労も水の泡、我々よりずっと前に並んで居た人で売り切れになり、解散させられてしまった。

h 戦後のことなど

戦争直後は三度の食事を確保するのに精一杯で、復員兵士相手に道端で芋粥(いもがゆ)などが売られている光景は目にしたものの、まともな外食など無かったのではなかろうか。

ことに昭和二十二年五月~昭和二十三年二月の片山哲氏を首班とする社会党内閣の下では、外食券食堂・旅館喫茶店以外の飲食店は営業禁止となっていた。

昭和二十六年、吉隈炭坑から麻生本社に転勤したとき、送別会を碓井の料亭でしてもらったのが、記憶に残っているぐらいで、その日その日の遣り繰りに追われる当時、外食するような余裕は無かった。

本社に移ってからも、同僚の歓送迎会などは、もっぱら会社のクラブを利用し、関係官庁や取引先の接待で、たまに街の料亭を利用することはあったが、私的に街の小料理屋などに出入りするようになったのは昭和三十年代に入ってからではなかったろうか。その後上司のお供をして街のバーなどに行き、やがては自分が後輩を連れて利用することにもなった。

そういう飲み屋から遠ざかって久しくなるので、今日のことは分からないが、当時の飯塚の飲み屋では、馴染みの店ではもとより、初めての店でも社名入りの名刺を渡せば、付けで飲ませてくれたことであった。

そんなことで、毎月給料日には付けの精算に行き、ミイラ取りがミイラになる類で、またぞろ新たな付けが出来ることもしばしばであった。店によっては、給料日にママさんが請求書を持参し会社までやってきて、玄関脇の控室で待っている姿も見られた。

毎月きちんと精算する客にたいしては。「ご縁が切れてはいやよ」と言って、精算額の一部を翌月分に繰り越しにする店もあった。

昭和四十六年東京へ転勤となり、それまでの付けの支払いに店を訪れたとき、精算金の中から幾らだったか憶えてはいないが、「僅かだけど餞別に」と割り戻ししてくれる店もあった。

東京へ転勤して間もない頃、出張で上京してきた友人を誘って、渋谷のバーに案内した。ところが、席につくといきなり男の店員がやってきて、前金として一万円を請求されたのには、びっくりした。

しかし、西部劇映画に出てくる居酒屋のシーンでも、客のカウボーイが先ずカウンターの上にコインを差し出し、バーテンはそれと引き換えにグラスにウイスキーをついで与えて居る。考えてみれば、商品と対価は同時交換が商取引の常識で、付けで飲ませる飯塚の飲み屋の方が例外に違いない。考えてみれば、まことにおおらかな飲み屋に恵まれていたものだ。今となってはそんな昭和が懐かしい。

ramtha / 2016年4月21日