前にも記したことだが、門司から小倉の中心部を通り抜け、八幡、さらには折尾に至る幹線道路には、路面電車が走っていた。また小倉大門から戸畑を廻り、八幡中央区へ走る支線もあった。
県庁所在地以外で市内電車の走る都市は稀であったことからすると、北九州は恵まれていたわけで、門司や八幡・戸畑などから、この電車を利用して小倉へ通学する中学生や女学生も少なくなかった。
電車賃は一区間五銭ではなかったかと思うが自信は無い。私も小倉魚町の本屋へ行くときなど何度も利用した。
道路はまだ舗装されていなかったが、線路敷は大半が石畳となっていた。また停留所には上り下り両方に、高さ二十cmばかりのコンクリート造りのプラットフォームが設けられていたが、屋根は無かったので、雨の日の乗客は雨傘をさして電車の到来を待っていた。
その頃は電車線路を塞ぐ自動車も無く、荷馬車や人力車などは線路の外側を通行していた。また国鉄日豊線と交差するところは、鉄橋を設け立体交差になっており、電車はスムーズに運行されていた。
その頃の電車では前の運転台に運転手、後ろの運転台に車掌が位置し、車掌は乗降客の安全を確認して、発車オーライの合図をベルで運転手に伝えていた。
車掌はキップや釣銭の入った蝦蟇口(がまぐち)様の黒い鞄を肩から前に下げて居り、進行中キップ切りの鋏を片手に携え、次の停留所の案内をしながら車内を往復する。乗客は自分のそばを通る車掌を呼び止めて行き先を告げる。すると車掌は鋏を入れたキップを渡し、運賃を受け取っていた。
(註)蝦蟇口=開いた形が蝦蟇の口に似ているところから名付けられた口金のついた金入れ。
主要な電停前にはキップ売りを委託された煙草屋などの店があり、そこであらかじめ回数券綴りを購入し、それを持って乗車する客も居た。回数券は今日のバスカードのように、車内で購入する乗車券より割り引いた値段で売られていた。
架線からワイヤーの付いたポールで電気を導入して走るこの電車は、小倉金田から八幡荒生田の間は、人家も少なく両側に田畑の広がる中を行くので、ことさらに加速し、唸り声を上げて走っていた。
電車が終点に到着すると、折り返し運転をするため、運転手は運転台からハンドルを取り外し、それを持って反対側の運転台へ移動する。車掌は電車から降りて、ポールに付いているワイヤーを引っ張り、これまた反対側へ廻って向きを変える。冬の冷たい風の吹く門司港の電停で、高等小学校を出たばかりかと思われる小柄な車掌が、顔を赤くし力いっぱいワイヤーを引っ張っていた姿が思い出される。
後年、高校在学中しばしば利用した博多の福博電車はパンタグラフで架線から電気を導入する路面電車であったが、こちらも車掌が乗務していた。
戦後間もない昭和二十三年、たまたま乗り合わせた電車で、その年東大法科を卒業した友人が車掌勤務をしている姿を発見し鷙いた。後日聞いたところでは、入社後一年間はみんな車掌勤務実習が義務づけられているとのことであった。
しかし昭和三十年頃だったか、電車はすべてワンマン運転となり、車掌の姿はみられなくなった。
当時は「九軌」と呼び慣わしていたが、経営の主体は「九州電気軌道㈱」とでも言う会社だったのだろう。後に西鉄の傘下に入っていたようだが、戦後社会のモータリゼーションにおされて徐々に縮小され、今では姿を消してしまった。CO2削減が声高に求められている今日からすれば惜しまれるところだが、私にとっての昭和の風景には欠かせない電車でもある。
ramtha / 2016年4月19日