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八月二十七日 「殺人ロボット」

今日の毎日新聞には、作家・柳田邦男氏が「究極の無差別殺りくの恐怖」と題して、次のような殺人ロボットに関する論説を載せている。

先頃、アメリカで警官五人を射殺して立てこもる凶悪犯に対し「殺人ロボット」が投入され、犯人を爆殺したことが報道された。テレビでは、殺人ロボットがどのように凶悪犯を「視認」し殺害したか、その遠隔操作の様子を再現するような映像で解説していた。空恐ろしい事件を生々しく見るようで、衝撃的だった。

もちろん。凶悪犯による無差別殺害行為の残虐性を横に置いて、殺人ロボットによる犯人殺害ばかりを非難するつもりはさらさらない。生身の人間である警察官を突入させれば犠牲者が出ることを避けられない状況下では、ロボットによる凶悪犯の制圧には、それなりに正当性を主張できる理由があると言えるだろう。それでもなお、私が空恐ろしいと感じたのはなぜなのか。

一つの理由は、命を持たず人格もないマシンが人間を殺害するという事態に対し、誰しもが感じるであろう不条理さへの反射的な感情だ。

二つ目の理由は、こうした無人殺りくロボットが暴走した場合に対する予感的な恐怖だ。いかにハイテクを活用したロボットとはいえ、しょせん人間が作った機械である。システムのどこかに欠陥が潜んでいるかもしれない。遠隔操作通りにならないことも起こるかもしれない。目標の凶悪犯あるいはテロリストを殺りくするだけでなく、向きを変えて無関係な方向に乱射するかもしれない。制圧部隊を射撃するかもしれない。

さらにもう一つの理由は、こうしたロボットが未来のテロ事件や戦争において、兵器の主流になっていくに違いないという恐怖であり、これこそがロボット投入の、最も重要で深刻な問題なのだと言うべきだろう。

無人殺りく兵器の戦場への投入は、これまでにもなかったわけではない。例えば、米軍がアフガニスタンなどでアルカイダ勢力に対する攻撃に頻繁に使っている、無人飛行機による爆撃だ。テロリストが潜んでいるとされる村や施設を爆撃するのが目的とはいえ、誤爆によって、住民が犠牲になっていることが、人権NGOのアムネスティやメデイアによって告発されている。

もともと空爆の正確さには限界がある。米軍はイラク戦争で、最新鋭の戦闘機による空爆は軍事施設に対するピンポイント爆撃であって、周辺の民家を巻き添えにしないよう、命中率を100%に近づけていると、実際の爆撃映像まで公開して説明していた。しかし、ピンポイント爆撃の実態は、とても「命中率100%に近い」と言えるものではなかった。多くの住民が巻き添えで犠牲になったことが、後で明らかになっている。パイロットが操縦する空爆でさえこうなのだ。巡航ミサイルによる命中率は、もっとひどいものになっている。

私はかねて、人間の命にかかわる問題を考える時に重要なのは、誰のいのちに寄り添って考えるのか、「いのちの人称性」という視点を持つことだ、と論じてきた。

「一人称の視点」とは、私(自分)のいのちや死を考えること、「二人称の視点」とは、愛する家族や親友のいのちや死を考えることである。

これに対し「三人称の視点」とは、人生を共有する家族に比べ距離感のある友人・知人、無縁の人のいのちや死を考えることだ。

遠い中東やアフリカで、戦争やテロで百人以上が犠牲になっても、食事がのどを通らないほどの衝撃を受けないのは「三人称の視点」だからだ。

これに加えて、最近私がしきりに考えるのは、「無人称の視点」という新しいキーワードによる考察の重要性だ。「無人称の視点」とは「相手を人間としては見ない」という感情停止の思考だ。

人は一人一人違う個性や価値観や人間関係を持ち、それぞれの喜びや悲しみの中で生活し、人生を築いている。しかし、「無人称の視点」になると、個別の人間を大切にする意識を断ち切って、単なる「数」としてしかとらえない、あるいは虫けら同然にしか見ない、ということになる。身近なところでは、2008年の秋葉原無差別殺傷事件や、今年7月の相模原市の障害者施設殺傷事件を引き起こした加害者の人間観だ。歴史的には、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)が挙げられよう。

戦場で頻発する虐殺も「無人称の視点」ゆえのことだが、究極の「無人称の視点」であり、究極の無人殺りく兵器による大量殺害は、核弾頭ミサイルによる攻撃だ。
都市と何十万という人間を、一挙に消滅させるのが目的だから、そこに暮らす人間一人一人の命など、意識の枠外だ。

広島に原爆を投下したB29エノラ・ゲイの機長は、全く罪の意識を抱かなかった。核ミサイルの操作はコンピューターを使うから、人間の理性と倫理観を完全に麻痺させる。科学技術の発達が「無人称の視点」という人間の冷酷化を増強していると言えよう。

殺人ロボットの問題は、犠牲者を出さずに凶悪犯やテロリストを制圧するという妥当性の倫理を超えた、現代の科学技術文明のあり方に対す問いを投げかけているのだ。

これを読んで感じたこと、考えたことを書き留める。

① 無人兵器に就いては、かつて平成十五年、オバマ米国大統領がアメリカ軍兵士の代わりに、無人機によるピンポイント攻撃によるテロリスト殺害を発表している。
これに対して、国連人権理事のクリストフ・ヘインズ氏が、「無人兵器の研究開発の停止」を求める声明を出している。
これについては「人智の行き着く先」で取り上げた。この時の記録によると、無人兵器の研究開発をしている国は、米国の他、英国、イスラエル、韓国、ロシア、中国などが挙げられていたが、その後どうなったかは分からない。おそらくヘインズ氏の声明など無視して継続され進化を遂げているに違いない。

② 「無人称の視点」という考えは初めてお目にかかった言葉だが、冷酷化する人間心理の表現としては斬新で適切な言葉と感じた。

③ 私は先の大戦で陸軍歩兵部隊に召集され、一度は日中戦争の最前線へ出動命令を受けた。幸いにして出動直前に私だけ内地部隊勤務となり出動を免れたが、出征命令を受けたとき、私みたいな気弱な兵卒でも敵と銃火を交え、突撃して相手と殺し合うことができるだろうかと迷ったことであった。考えた挙げ句、銃剣を持って突撃するときは、通常の理性を失い狂気の状態になっているに違いない。そうでなければ人を殺すことなど出来るはずが無い。あるいは戦場に立たされた時からもう自分を失い獣と同じ本能だけになっているだろうと思い至り、私なりに納得したことを思い出す。
あれがまさに柳田氏の言う「無人称の視点」に違いない。

④ 柳田氏が取り上げている秋葉原無差別殺傷事件や相模原市の障害者収容施設の殺傷事件などは、戦場に駆り出された兵士ではないが、他人を殺傷している時の心は同じではないか。ただ彼らが「無人称の視点」になった原因は、現在の日本社会の「ゆがみ」であり、その背景は別に考えてみなければならない問題である。

⑤ 柳田氏の取り上げている無人殺戮兵器の恐ろしさは日頃、家族と共に平和な暮らしを楽しんでいる多くの市井人を無人殺戮兵器によって他人を殺傷することに良心の痛みを感じなくなることにある。
私はかねて武器の発達が自分と殺傷する相手との距離を遠くし、遠くなるその距離に比例して、良心が麻痺すると考えている。

武器の無い時代、人は自分の腕で相手の首を絞めたに違いないが、その時は相手の抵抗によって自らも傷つき、また、苦しむ相手の顔はすぐ傍らにある。その時は無我夢中でも、平常心に戻。た時、その顔に良心が苛(さいな)まれる。使用する武器が弓矢となれば、敵の苦しむ表情までは分からないし、銃や大砲となれば、自分が殺害した敵がどの死体か判別できない。それと共に殺傷への良心は次第に麻痺し、空からの爆撃や遠隔操作による攻撃に至っては、攻撃の成果を誇りとすることはあっても、被害者のことなど気にかけることも無いに違いない。

無人殺戮兵器の恐ろしさは、それによって平時からこれを使用する人間の良心喪失にある。柳田氏の最大の恐怖はまさにこれである。

ramtha / 2016年9月14日