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九、クーデターを断行

中央では土佐藩主の提唱する公武合体による将軍徳川慶喜の大政奉還も、薩長の肘幕運動を止めるには至らず、慶応四年(一八六八年)一月、ついに鳥羽伏見の戦いが始まり、慶喜追討令が出されている。

慶喜は大阪から海路江戸に戻り謹慎の意を表明するも、幕臣の多くは薩摩・長州を中心とする新政府軍に抵抗の姿勢を示し、江戸城での攻防戦が予想されたが、同年三月、西郷隆盛と勝海舟との会談で、江戸城の無血開城が実現、一応戦火を免れることとなった。

しかし、なおこれに承服し難い人々は、彰義隊を組織し、上野寛永寺に立て籠り、抗戦の姿勢を示した。五月十五日、新政府軍はこれに一斉攻撃を加え、一日で制圧している。

一方、会津藩を中心とする奥羽越三十三藩は、五月三日、奥羽越列藩同盟を結び、徹底抗戦の挙に出るに及び、戦火は長岡・会津へと北上するに至った。

いままでは、高みの見物を決め込んでいることが出来た松前藩も、火の手が隣に及ぶに至っては、勤皇か佐幕か、いよいよ態度を明らかにしなければならない。こうした情勢の中で雄三は、かねて正義隊の鈴木織太郎らが福山で挙兵するときは、江差から応援に赴くことを約東していたが、七月三十日、変事発生と称して非常鐘を鳴らし、藩士を集め、氏家丹宮と従士九十四名を率いて福山に駆けつけ、松前勘解由以下佐幕派の重臣達を拘束、謹慎させ、正義隊のクーデターを成功に導いている。

なお、正義隊は、その成功を新政府の函館府に報告し、藩政改革の第一歩として、厚沢部村近くの館に新しい城を築くことを請願している。

この時の功績で雄三は執政に任ぜられ、一代寄合席の資格を与えられている。また、十月に館城が完成し、藩主以下館へ移るに当たり、福山城の鎮台(チンダイ=城を守る部隊長)に指名されている。

ramtha / 2016年10月14日