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一、尾見五郎について追而書

今年(平成十七年)になってから、かねて心にかかっていた我が家のルーツについて、僅かばかりの資料と、おぽろげな私の記憶を頼りに、「ご先祖様のことども」を纏め、続いて「尾見雄三という人」を書いてみた。

しかし、顧みると曖昧なことが多く、豊富な知餓を有していたに違いない両親はすでにこの世に亡く、尋ねる術も無い。

そうしたもどかしさを愚痴っていたら、それを聞いた長男の恒士が、疑問のいくつかについてインターネットで調べてくれた。おかげで、次のようなことが判明した。

その第一は、亡父の叔父・尾見五郎(尾見雄三の五男)が、札幌農学校卒業の農学士であったことである。
五郎叔父さんは、熊本県立済々黌の同窓会名簿によると、明治三十年頃英語教師として勤務しているが、どこで英語を身に付けたのか、今まで分からなかった。
ところが、大阪府立八尾中学校でも教員として勤務していたことを頼りに、八尾中学校校友会に照会したところ、一世紀前の校友会誌他、尾見五郎に関するいくつかの記録をコピーして送ってくれた。それによって以下のようなことが判明した。

①明治三十四年十一月二十五日発行の、大阪府立八尾中学校校友会誌(第二号)の教官職員の櫚に、「尾見五郎」の紀載があり、住所は大阪府中河内郡加英村正覚寺と紀されている。

尾見雄三の履歴には、明治三十二年、同じ正覚寺に函館から転居したと記されているところを見ると、五郎が当時七十四歳になっていた老父雄三を引き取り同居したものと思われる。

②また、八尾高校百年誌の中に、卒業生の心の故郷となった狐山は、尾見五郎先生の尽力により明治三十三年五月十日皇太子御成婚記念として購入、付属樹栽用地とされたものであること。また、尾見五郎先生は札幌農学校卒業の農学士であったなどと記されている。これで五郎が英語を学んだのは札幌農学校であったということがはじめて分かった。

当時の札幌農学校(現北海道大学の前身)は、「ポーイズピーアンビシャス」で有名なクラーク博士の指導のもと、あらゆる授業が、英語で行なわれていたようだから、生徒は誰しも英語に堪能であったものと思われる。

また、尾見五郎はクラーク博士に直接教えを受けたわけではないが。札幌農学校の卒業生には、かの内村鑑三や新渡戸稲造のようなクリスチャンとなる者が多かったようで、そうした中で、五郎もキリスト教に入信することとなったのではあるまいか。その叔父五郎に育てられた亡父・善次郎もまた、クリスチャンとしての人生を歩むこととなったのだろう。

なお、社団法人札幌農学振興会に問い合わせたところ、明治二十九年十二月刊行の『札幌同窓会第五回報告』の中に、明治二十七年、札幌農学校第十二期卒業生として農学科七名、工学科二名が記載され、農学科七名の中に尾見五郎が居り、当時の住所は新潟県長岡、職業は尋常中学校教諭と記されている旨、回答を頂いた。

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(札幌農学校 第12期 卒業写真 この中に尾見五郎叔父が居ると思われる)

以上の紀録を整理してみると、尾見五郎は
明治二十七年(一八九四年)札幌農学校を卒業、
明治二十八年には新潟県立長岡中学校の教諭、
明治二十九年には熊本県立中学済々黌の教師、
明治三十二年当時は大阪府立八尾中学の教師として大阪府中河内郡加美村正覚寺に住み、老父尾見雄三を函館から呼び寄せている。

これらを見ると、明治時代の中学校(今日の高校)の教員人事は全国規模で異動が行なわれていたように思われる。従って尾見五郎がその後、どのような転勤異助を重ねたか、その詳細は分からないが、大正七年頃私の毋が外傷性脊椎カリエスを患い、愛媛県大洲の尾見家で養生していた時は、高等農林学校で教鞭を執っていたと聞いている。

愛媛県生涯学習センターのサイトによると、明治四十一年(1908)に開校された「東宇和郡立農蚕学校」の初代校長として就任している。
また、Wikipediaの「愛媛県立松山農業学校(旧制愛媛県農業学校)」によると、大正元年(1912)九月~同八年(1919)五月の間、四代目の校長として勤めている。

なお、八尾中学同窓会の大正十一年十二月発行の会員名簿には、特別会員(元教職員)として尾見五郎の名前が記載されているが。その住所は大阪府南区天王寺松ヶ花町となっている。これを見ると、その頃は再び大阪に転住しているようだが、そこで何をしていたかは、分からない。

前にも述べたところであるが、尾見五郎は昭和十一年(一九三六年)八月、愛媛県大洲市で亡くなっている。とすれば、温暖な伊予大洲を終の住処(ついのすみか)とすぺく、晩年になって大阪から再び転居したということだろう。

尾見五郎の生年月日は不詳だが、私たちの祖母カクは安政三年(一八五六年)生まれで、五郎はその弟だが、その間に四人の兄弟姉妹がいたようだから、十年位年下とすれば、慶応二年(一八六六年)生まれとなり、七十歳位であの世へと旅立ったことになる。

ramtha / 2016年10月31日