サラリーマン生活三十余年の間には、ずいぶん多くの人と巡り会い、多くの先輩、上司からいろいろなことを教えられたことであった。そうした方々の中で、私にとってまことに不思議な存在がトンペイさんである。
本名は原田富平なのだが、麻生社内では誰しもが「トンペイさん」の愛称で呼びならわしていたし、「トンペイさん」と呼ぶことで、あの茫洋とした原田富平さんの風貌が眼のあたりに浮かんでくる。
私は昭和三十二年秋から三十七年の秋まで、当時麻生本社の文書課長であったトンペイさんの下で、課長代理として勤務していたので、当時はもとよりトンペイさんが労働部長に栄進した後も、ずっと「課長」とお呼びしてきたものだが、原田さんの話をするには、やはり「トンペイさん」と申し上げるのが、一番ふさわしく思われる。
トンペイさんは私より五年ほど年長、たしか福井昌保さんと同期の入社である。戦時中には、麻生の南方進出に伴い、インドネシアに派遣され、セレベス島で大変なご苫労をされたと言うことである。しかし、私が見知ったのは昭和二十四年頃で、トンペイさんは、すでに文書課の課長代理であった。
当時の文書課長は、労働部長の高木栄一二郎さんが兼務されていたので、トンペイさんが実質的な課長職を勤めていたのではないかと思われる。麻生の文書課は社長直属で、職員人事を担当するセクションであったから、社員にとって、文書課長は太賀吉社長についで怖い存在であった。とりわけトンペイさんは口数が少なく、またどことなく他人を寄せ付けない雰囲気を備えていたので、ひとしお近寄り難い感じがあった。
だから、文書課へ異動の内示を受けたとき、私には、あの気難しいトンペイさんの下で、果して勤まるだろうかという不安があった。しかし、労務課の勤務も六年にも及び、そろそろ新しい仕事をしてみたい頃でもあったので、複雑な気持ちで辞令を頂いたような気がする。
そんなことで重役室に連なるガラス張りの文書課に入った初日は、とりわけ緊張していたようだ。その日は勤務時間が格別長く感じられたが、退勤後、トンペイさんは私を街の料亭に誘われ、二人きりでの歓迎会をしていただいたことであった。
当時三十代半ばの私は、トンペイさんの威圧に押しつぶされまいと気負っていたようである。その夜、酒の勢いをかりて
「課長は何を考えているか分からない、怖い人というのが、社員一般の印象ですが、お宮のご神体のように、スダレの奥に隠れているので、有難く思われているだけでしょう。スダレを上げて覗いてみれば、なんということはないんじやないですか。そのうちに私が課長のスダレをはぐって見届けますよ。」
と大言壮語した。
するとトンペイさんは重い口を開いて
「さあ、貴方に出来ますかな。」
と嘯(うそぶ)かれたものであった。
その夜、親しく杯を交わしたことで、トンペイさんがずいぶん身近に感じられるようになったが、職場では依然として課員みんながトンペイさんを恐れ、その意に逆らうことのないよう、気を配りながら仕事をしているようであった。
いまから考えてみると、それは秘密を要することの多い人事業務を扱う職場の特殊性と、口数の少ないトンペイさんの性格によるものだったと思われる。日頃トンペイさんから課員に指示されることは、文書の清書、発送や計算事務など、すべて作業命令であって、その作業の目的や必要性などについての説明はない。
人事異動や昇給の辞令書きなど、機密を伴う事項については当然のことながら、資料の調査、作成などについても、作業の指示のみで、どういう目的に使われるのかその意図についての説明はされたことがない。命令された者は、その指示通りに作業をするだけだ。しかし、資料の収集、作成などは、課長より実務担当者の方がその仕組みや手法にくわしい。だから聞かされてはいないが、課長の使用目的のためには、もっと別の手法が良いのではないかと思われることもままある。だがそのような時でも、誰も課長へ意見具申するものはいない。それに気がついた私が、トンペイさんに進言しょうとしたら、古参課員の広津ウメ女史に
「文書課に来たばかりで、生意気言うものじゃないわよ。課長さんの言われた通りにしとけばいいのよ。」
とたしなめられた。しかし、無駄な作業をやめて能率的方法に改善するのは当然のこと、それを課長が受け入れない筈はない。私は広津女史の諌止を振り切ってトンペイさんに進言した。
課長席のトンペイさんは、私の話しかけにうつむいていた顔を上げたものの、目は宙の一点を凝視したまま応答されない。なにか今までの思考が、私の話しかけで中断され、不愉快なのかも知れない。例の茫洋とした無表情である。私も話を続けるのが一瞬ためらわれる思いがした。しかし、横で事務をとっている広津女史が「だから私がとめたじゃないの。」と腹の中で思っているだろうと考えると、ここでたじろぐわけにはいかない。勇を鼓して提案を続ける。すると無言のまま私の話を聞いていたトンペイさんが、やおら重い口を開いて
「ああ、それはいいですな。うーん、なるほど・・。そうしてみると、長い間ずいぶん無駄なことをしていたわけですな。」
と、いとも素直に私の提案を受け入れられた。
私もちょっと意外な感じだったが、長年トンペイさんに仕えてきた課員一同びっくりしたようである。
広津女史は後日
「佐藤さんはきっと課長さんとウマがあうのね。課長さんがあんなに簡単にOKするとは思わなかったわ。」
と言ったことであったが、性格的には両極端とも言えるほど異質のトンペイさんと私は、異質なるがゆえにかえってウマがあっていたのかも知れない。それからというもの、私はトンペイさんに対して、ずいぶん気ままに振舞ってきたものである。
いまから顧みると失礼な言動も多々あったにちがいないが、トンペイさんはそんな私を咎めることもなく、許していただいたことであった。
私に対してはまことに寛大なトンペイさんだったが、その本質はゴーイングマイウェイ、あまり他人事に気をつかわれない一面があったようである。
業務上の用件で事業所へ出かけるときなど、会社の乗用車を利用することが多かったが、トンペイさんは車を玄関先に長時間待たせて、平然と書類探しなどされていることがしばしばである。あるとき見かねた私が
「課長。ずいぶん車を待たせていますよ。街のタクシーなら、待ち時間もぐるぐるメーターが回っているところですよ。」
と失礼なことを申しあげたが、トンペイさんは別段動じることなく
「ああ、そうでしたな。」
と言われたものの、なお暫くしてからようやく腰を上げられたことであった。
その後どれぐらいたってからだったろうか、執務中に
「佐藤さん。今回っているところですな。」
と二コニコしながら声をかけられた。顔を上げて見ると、トンペイさんは左手に広げた書類を抱え、右手で大きく宙に円を描くゼスチャーをされている。私は一瞬何事かと怪訝な思いがしたが、気がついてみると、その時も車を待たせて書類探しをされていたのであった。
トンペイさんには、他人から見ると、いささか我侭なと思われる一面があったが、それは俗界の為来(しきたり)や慣習にとらわれないおおらかさというものだったようだ。今風に言えば、自分に忠実なというところだろうか。いずれにしても自由でありたいという欲望が人一倍強かったように思われる。だが同時に他人の意見に耳を傾ける豊かな包容力も兼ね備えておられた。
トンペイさんの下での五年間は、私の人生で最も楽しく、最も充実した時代となったが、それはひとえに細事にこだわらず、事務処理については一切を私に任せて下さったトンペイさんのおかげである。
社員氏名のゴム印使用、辞令のペン書き(従前は広津女史が毛筆で書いていた)、会計機の導入、父兄を招いての入社式、就職斡旋による五月雨式人員整理など、非力な私にしてはよくぞこれだけの仕事をさせてもらったものだと思い返される。こんなことが実現出来たのは、野見山芳久君、山門栄想君、山本操一君等すばらしい部下に恵まれたことにもよるが、なんといってもトンペイさんから全幅の信頼と支持を頂いたからである。
仕事に熱中していた当時は気のつかぬことであったが、若造の私に良くぞ任せて頂いたものと、今更ながらトンペイさんの人間の大きさに感心させられる。
トンペイさんは謡曲や習字などの修行をされていたようだが、そちらの方は皆目苦手の私には、課長がどの程度熱を入れておられたかは分からない。課長宅を会場とする習字には、秘書課の森本妙子嬢も参加していたようで、彼女から
「課長さんのお宅での習字に、課長さんはこのところずっと出席されてないんですよ。」
と聞いたことがある。
座敷を会場に、みんなが習字を習っている間、トンペイさんは襖一つ隔てた隣の部屋で寝ころかっているのだそうである。習字が終わり、みんなが帰って行ったあとやおら起き上かって、酒好きの先生(たしか谷筑水先生とかいわれる方だったが)の相伴をされていたとか。ここまでくると、小人の理解を超える奇妙人と言うほかはない。
トンペイさん宅での習字は、ずいぶん長い年月行われていたようである。お世話をされる奥さんには、迷惑この上もないことだったろうが、亭主の好きな赤烏帽子とは言うものの、よくぞ勤められたものと、これまた感服のほかはない。
私にはもとより字の巧拙を見る目はないが、今私の手もとに残るトンペイさんの筆跡には、世俗を超越した独特の風格が窺われる。
日頃無口で、あまり喜怒哀楽を表されないトンペイさんのことだから、知る人はあまりいなかったことだろうが、意外とユーモラスで茶目っ気な一面も多分にあったようである。
あれは昭和三十五年のことだったと思う。長年秘書課に勤務していた森本妙子さんが退社することになった。女性のこととて、酒を呑むばかりの送別会よりも、お別れ旅行でもということで、一泊二日の由布院温泉行きが計画された。
出発の前日、退勤後の事務室で、課長、松田清市さん、野見山芳久君と私の四人が雑談をしていたが、そのとき私が面白半分に
「明日は森本さんの送別旅行ですが、私達はともかく課長は長いつきあいだから、特別な趣向をこらされないといけませんな。」
とトンペイさんをからかったものである。
「特別な趣向?、どうしたらいいですかな。」
「そうですな、さしづめ羽織袴に鳶をはおり、吉田首相のように白足袋はいて、山高帽子にステッキというスタイルですかな。あ、それに信玄袋を提げられるといいでしょう。」
などと、口からでまかせに冗談を言ってふざけたことだった。
その旅行は、翌日土曜日の昼食後出発することとなっていたが、午前中の執務が終わったところで、トンペイさんは
「ちょっと着替えてきますわ。駅にまっすぐ行きますから、先に行ってつかさらんか。」
と言われ、本社前のお宅に帰られた。
課員一同新飯塚駅で待っていると、やがて課長はタクシーでかけつけてこられた。車から下りてこられる姿はと見れば、なんと私が昨日出任せに注文をつけた通りの格好ではないか。一同唖然とするばかり。だがご本人は
「佐藤さん。こんなところでいいですかな。」
と平然たるもの。これには仕掛人の私も完全に度肝をぬかれたことであった。
それにしても、その異様な姿で悠悠と旅を続けられたトンペイさんはもとより、その衣装を揃えるのに、なにも言わずに協力されたにちがいない奥さんにも心から脱帽したことであった。
トンペイさんとの長い交流の間には、意表を衝かれる思いをしたことがまだまだ数多くあった。今にして思えば、私のような凡俗の尺度では測りきれないところが、トンペイさんの魅力であり、私はそんなトンペイさんに惹きつけられていったようである。
昭和三十七年秋、トンペイさんは労働部長に栄進、私が後任の文書課長に就任することとなった。五年前トンペイさんが私の歓迎会をしてくれた料亭金広で、今度は私が一対一の送別会を催した。
昭和三十三年に始まるエネルギー革命の波は、容赦なく石炭業界に襲いかかり、わが社も合理化につぐ合理化で、職員人事を預かるトンペイさんと私は、職組対策に人員整理に日夜苦労してきたことであった。だからその夜も回顧談は尽きないことであったが、トンペイさんが突然
「佐藤さん、とうとうはぐりましたな。」
と言われる。
この時も意表を衝かれた感じで、私は何の事か分からなかった。
「五年前もやはりこの部屋でしたなー。」
と言われて、やっと思いだした。私が文書課に赴任した夜、ここで課長にずいぶん失礼な暴言を呈したことであった。私はすっかり忘れていたのに、課長は覚えておられたのだ。冷汗三斗の思いであったが、顧みると五年の間に、トンペイ神社のスダレをはぐって、ご神体を見届けるどころか、私はすっかりトンペイさんの虜(とりこ)となりはてていた。
昭和四十二年の会社分離の際、トンペイさんは飯塚病院事務長として石炭に、私はセメント総務部長に配されて、会社を異にすることとなった。さらに四十六年には私が東京に移り、数年後トンペイさんは郷里出雲に引き込まれるに及び、暫く交流が途絶えがちとなった。しかし、お子さん方が皆さん首都圏在住ということもあって、毎年トンペイさんは上京されてこられたが、その都度サンケイビルの私の事務所に訪ねていただき、旧交を温めるようになった。
昔は私が一方的に喋ってトンペイさんが聞き役と言うのが私達の会話であったが、その頃しばしば私が聞き役となっていることに気がついたことであった。
山陰生まれのトンペイさんの無口は、天性のものであったことだろうが、長年人事を担当されたことが、より一層口を重くしていたのではなかろうか。晩年のトンペイさんは、そうしたしがらみから解放されてのことだったろう、すいぶん話されるようになり、私の知らない戦前の麻生のことなど、いろいろとうかがったことである。
あれは何時のことだったろうか。私が飯塚に戻って来てからのことだから、平成十二年の春のことだったと思う。突然トンペイさんから電話があった。飯塚に出てきているので、本町通りの「このみ本店」まで出て来いとのこと。なんの前触れもなかったことだから、何事ならんと早速かけつけたが。
「なにかあったのですか。」と尋ねると
「山口の美術館まで出かけてきたのですが、生憎今日は休館日でしたわ。そしたら途端に貴方の顔が見たくなりましてね。やって来ましたわ。」
と、いつもの口調である。
わざわざ訪ねて頂いた私としては感激ものだが、それよりも、久方ぶりにであったトンペイさんの、相も変わらぬ奇妙さがこの上もなく嬉しくなり、さしつさされつ心いくまで呑みかつ駄弁ったことであった。
それから程なく腸閉塞で島根大学病院に入院されたと聞き、お見舞いに参上したが、そのときはさほどのことはなく、やがて退院されたようだった。
しかし、後日奥様に伺ったところでは、腸のポリープは剔出したものの、転移した肺の方は抗癌剤で抑えているというのが真相のようであった。その後抗癌剤治療のたびに入退院を繰り返されていたようである。
昨年七月、小康状態を回復されたトンペイさんが来飯された機会を捉えて、かつての文書課一同が集合、大浦荘で懇親会を催した。その日のトンペイさんは、また昔のように無口、無表情なトンペイさんに戻られた感じであったが、それは多分抗癌剤の副作用によることではないかと思われた。
しかし、三十年ぶりの早川(旧姓藤紀代子)さんの参加もあって、久方ぷりの会合は、昔話に花が咲きずいぶん盛り上がったことだった。トンペイさんも言葉少なではあったが、みんなの話に加わり、楽しげにひとときをすごされたように見受けられた。しかしこの日がトンペイさんの声を聞く最後の日となってしまった。
秋口から病状が一段と進行されたと、奥さんの電話で承知してはいたものの、年明けの一月二日、ご令息から訃報の電話を頂いたときは、さすがにショックだった。
かって酒席のたわむれに、どちらが長生きするか分からないが、後に生き残った方が、弔辞を読むことにしようと約束を交わしたことがあった。だが、かねて病弱な私は、トンペイさんに弔辞を読んで貰うことはあっても、私が読むことになろうとは思ってもいなかった。
一月四日、出雲のご自宅で葬儀が行われた。時折冷たい雨がパラつく空模様であったが、旧家の広い庭先まで会葬の人々で埋め尽くされていた。
霊前に拙い弔辞を捧げる間、私はなれぬこととてひたすら緊張していたが、トンペイさんは棺(ひつぎ)の中から
「佐藤さん。まあ、そう固うならんと、気楽に読んでつかさらんか。」
と、私に話しかけておられたような気がする。
葬儀の後、表の通りに出てみたら、空き地の向こうには冬の日本海がひろがっていた。出棺を侍つ間、単調な波の音を聞いていると、胸の中にわびしさが次第にひろがってくる思いがした。
ramtha / 2011年3月7日