戦局はいよいよ厳しく、太平洋に散らばるサイパンやパラオなどの島々は、次々に米軍の攻撃に陥落、守備隊は全員玉砕。昭和十九年十月、レイテ島沖海戦で、日本連合艦隊は事実上消滅、米軍の沖縄上陸も間近かという状態になっているらしい。
そうした戦況など、一兵卒の私などには全く知らされていなかったが、連隊本部情報班の値賀上等兵からこっそり聞かされた。沖縄の次はいよいよ本土上陸か。彼の話によると、米軍の上陸地点は、九十九里ヵ浜か志布志湾かということらしい。彼は私の顔を見据えて「俺達も来春は冥土行きだな」と呟(つぶや)いた。
たしか十二月の初めだったか、急に志布志の兵舎を畳んで後ろの山間(やまあい)の仮谷(かりや)部落に移動することとなった。
当初の水際作戦では、敵艦艇の艦砲射撃と強力な水陸両用戦車には太刀打ちできない。そこで、敵を一旦上陸させ、起伏の多い山中で邀撃(ヨウゲキ)する、言うな
ればゲリラ戦術に変更したものと思われた。
当時の大隅半島の山奥は全く未開の地で、僅かに民家が点在するほかは、鬱蒼たる雑木林に覆われる傾斜地である。そんなところに、あただに作られた兵舎に、私達は寝起きすることとなった。屋根は茅葺き、外壁も竹や木の枝を組み合わせ、板張りの床はあったが、雨が降ると床下を水が流れるという粗末なものであった。
トイレは兵舎から離れたところに作られていたが、地面に深い穴を掘り、間隔をおいて何枚かの板を差し渡し、その上にしゃがんで用をたす仕掛けとなっていた。
兵舎と同じく茅葺きの屋根と蓆(むしろ)を垂れ下げた囲いはあったが、雨降りの夜など、暗闇の中、滑りやすい坂道を上り下りし、雨に濡れた入り口の蓆で頬を撫でられるなどして用便をする不快感は、七十年経た今思い出しても、身震いがするほどである。
炊事は坂の下の谷間に作られ、食事の度ごとに初年兵が週番上等兵に引率され、それぞれ樽に入った主食と副食の汁を天秤棒で担いで運んでいた。私は運ぱされるような目には遭わなかったが、雨の日など、当番の初年兵の苦労は並大抵のことではなかった。
そんな苦労をして運んだものだから、運搬の途中、雨水で味の薄くなった汁にも、我慢しなければならないこともしばしばであった。
そうした不衛生な生活環境の中、昭和二十年五月、アメーバー性赤痢が大隅半島一帯に発生した。
松尾伍長も私もたちまち罹患した。大崎町の小学校の校舎に仮設の陸軍病院が設置されていたが、そこに入院させられることとなった。
輜重車に乗せられ病院へ移動する道中でも、何度も便意を催し、道端にしゃがんで用をたしたが、あのようなことも赤痢の蔓延を広げた一因であったに違いない。
病院に到着すると、生徒用の机を取り払った教室の板張りに、藁蒲団を敷いた病室に寝かされた。我々が入院したとき、すでに何人かの赤痢患者が入院して居た。
その部屋の片隅に、蓆(むしろ)で囲んだトイレが作られていた。他の入院患者への伝染防止のため、赤痢患者は、専らそのトイレを使用することとなっていた。
そのトイレの中には、天井から左右に綱が吊るしてある。一日に何度も下痢し、極度に衰弱した患者が、それに掴まって立ち上がるためのものであった。
今日のように抗生物質など速効性のある薬などは無く、ひたすら下剤を投与し、体内の赤痢菌を排泄させてしまう絶食療法である。
入院した翌朝、先に入院していた患者の一人が死亡した。そ日の夕刻、そのペッドに、また新しい入院患者が収容された。
一日に数十回も下痢するのでは、急速に衰弱してバタバタと死んでゆくのは当然のことである。このままでは私も助からないではないか。
私は子供の頃から、しばしば腹下しをして親に心配をかけてきたが、その時母が、青梅の実を卸金(おろしがね)で擦り下ろし、とろ火で煮詰めて梅肉エキスを作って下痢止めとしてくれていた。それを思いだした。
折よく梅の実がなる季節である。早速付き添いに来ていた初年兵に金を渡し、青梅と卸金を買って来させ、梅肉エキスを作らせた。
天幕一杯買わせた梅の実も、エキスにすると、煮詰めた飯盒の底にくっついた程度の僅かなものであった。
しかし、それを衛生兵に隠れて服用して、松尾伍長ともども全快退院することができた。なお、僅かに残った梅肉エキスを他の患者に与え感謝された。
ramtha / 2015年6月12日