麻生産業(株)は飯塚の名門企業である。先代麻生太吉社長以来、地元飯塚の発展にずいぶんと貢献している。そうしたことからだろう、地元の嘉穂高校の卒業式には、毎年来賓として招待される。したがって、卒業式当日は社長の名代として、文書課長が祝儀の金一封を持参して参列するのが習慣となっていた。
昭和三十五年の嘉穂高校の卒業式には、原田課長に代わって私が参列した。課長はその時ヨーロッパ視察旅行へ出かけて不在だったからである。
私としては初めてのことであったが、当時たしか一万円を包んだ熨斗袋を持参し、学校の玄関に設けられた受付で、若い女の先生へ渡して式場へ入った。
考えてみると、私にとって卒業式というのは、小学校の卒業式に参列したのが、唯一の体験である。中学は四年から旧制高校に進学したので、卒業はしていない。福岡高校の卒業式は当日風邪で欠席した。大学は三年生になった途端に学徒出陣で軍隊に入り、戦後わが家に帰ってみたら、留守中に卒業証書が郵送されて来ていたという次第である。
だから久しぶりに見る卒業式は珍しく、またなかなか良いものだと思ったことであった。在校生代表の送辞、卒業生の答辞など型どおりの式次第がおこなわれていたが、そのうちに祝電披露で、地元選出の多賀谷代議士や県会議員などの祝電が次々と読み上げられた。
それを聞いているうちに、ちょっと待てよ、電報代は幾らだろう。当時のことだから普通の長さなら百円もしなかった。百円もしない祝電は読み上げられ、列席の生徒父兄全員に打電者の名前が披露される。それに対して金額では百倍もの祝儀を包み、名代の名代とはいいながら、私自身が雨の中わざわざ足を運んで来たのに、わが社に対しては、受付で先生が「有難うございます。」と一言挨拶はあったものの、式場で披露されることはない。これはまことに不都合ではないか。私は来賓席でそんなことを考えていた。
腹立たしいことだが、嘉穂高校の先生方がことさらにわが社を無視しているわけではない。世の中一般のしきたりがそうなのだ。卒業式に限らず、葬式でも、自ら足を運んで葬儀に参列し、どんなに多額の香典を包んでも、弔辞でも読まなければ、その人の名前がマイクで披露されることなどない。
一方、葬儀参列をさぼっても、弔電一本打っておけば、電文はともかく、打電者の名前はマイクを通して披露されるものだ。 だとしたら、わが社の存在を参列者に知って貰うには、祝電を打つことだ。
その日会社へ戻った私は、早速野見山君にこのことを伝え、来年からは祝電を打とうではないかと話した。なお、単に嘉穂高校だけでなく、飯山すべての高校、さらには、その年の採用内定者の卒業式には全部祝電を打つことにしよう。全部と言ってもたいした数にはならないが、かりに百校に打電しても一万円もかからない。
そんなことで、翌年から早速実行してみた。
その年、嘉穂高校卒業予定の藤紀代子さんが採用され、卒業式前から文書課に勤務していた。三月一日の卒業式当日、彼女は会社を休み卒業式に参列したようだ。翌朝私が出勤したら、彼女が「昨日は祝電有難うございました。」と礼を言う。私はすっかり忘れていたが、野見山君がぬかりなく打電していたものである。
また、その年の他の新入社員からも、卒業式で自分が入社する麻生産業からの祝電が披露されて、とても嬉しかった。地元代議士などの祝電はあったが、会社からのものは麻生だけだったので、ことさら有難かつたと感謝されたことであった。
卒業式が話題になるたびに、思い出されるが、あの時は自分の思いつきに、鬼の首でも取ったように興奮したものだが、思えば私にもほほえましい若い時代があったのだ。
(平成九年十二月)