もともと資源の乏しい国のことだから、当時の軍隊には人間よりも物を大事にする思想が、根強く流れていたようだ。
「おまえ達は一銭五厘(当時のはがきの値段)で集められるが、鉄砲の弾は手に入らん」という台詞は、初年兵の時に何度も聞かされたものである。また兵器はもとより、衣類や食器に至るまで、天皇陛下から下された物で、ゆめおろそかにすべきでないと、繰り返し教え込まれていた。いまどきの若者のように、物を粗末にするのもまことに嘆かわしいことだが、当時の軍隊の物を大事にすることの異常さは、人間性までも歪めてしまっていた。
前に食事当番の事に触れたが、内務班の食事当番は一日交替であったが、夕食後の食器洗いが終わり、食器を内務班の一隅に置かれた食器棚に納めて翌日の当番に引き継ぎをすることとなっていた。
食器棚の前に、当日と翌日の当番が整列し、先任上等兵の立ち会いで食器の員数が点検される。
食器の員数が定数に不足すれば、当時の当番は紛失した背筋を問われ、殴られた上に翌日も当番を続けなけばならない。
食器はすべてニュームかベークライト制のものだったから、変形することはあっても、陶磁器のように粉々に破損することはない。だから員数が不足するということは、紛失したことになる。紛失したものを捜し出して、充足しなければ、当番を交代することもできないし、毎晩の体罰から免れることもできない。
娑婆であれば、自腹を切って購入して埋め合わせることも考えられるが、外出も許されない初年兵の身ではそれもできない。
その結果、洗い場で一緒に洗っている他のグループの食器を盗む事になる。
昼間は難しいが、夕食後の暗い洗い場では、こうした盗みが毎晩のように行われる。どうかすると盗まれた相手が気づいて、盗んだ者を追いかけ殴り合いになることもしばしば見られた。
最も手荒いやり方では、食器の入った籠を抱えて帰る者をめがけて体当たりし、その衝撃で散乱した食器を、集団で手当たり次第かっぱらうような連中もいた。
初年兵達は、いつ盗まれるか、いつ体当たりをされるか分からない不安におびえながら、食器洗いをしなければならなおい。充分に警戒していたつもりでも、内務班に帰り点検してみたら、盗まれていたなどということもある。
こんな有様だから、員数不足の時の体罰から遁れるために、予め盗んで蓄えておく者まで現れてくる。私が当番のある日、食器棚のの前で員数を予め数えてみたら、皿が一枚足りない。前日引き継いだときは定数通り揃っていたのだから、今夜の洗い場のドサクサの中で盗まれたに違いない。あのとき自分のそばにいたうちの、どの男だろう。しかし、そんなことを考えてみてもはじまらない。とにかく今夜の引き継ぎまでに一枚都合しなければ・・・と思いをめぐらしていたら、その様子を見ていたのだろう、そばにいた福田上等兵が
「おい、どうした。何か足らんのか」
と抑えた声で尋ねる。
私はもう古兵に気づかれたのかと、一瞬ギクリとして黙って突っ立っていた。
すると「皿か、椀か。」と重ねて聞かれる。
仕方ないので力なく「皿が一枚足りません。」と小声で応える。
うなずいた彼は自分のベッドの上に立ち上がり、背伸びして天井板を押し上げ、天井裏からニューム皿を一枚取り出し、黙って手渡ししてくれた。おかげでその日私たち当番はぶん殴られることなく、無事引き継ぐ事ができた。
福田上等兵は娑婆では大工をしていたとか聞いたような気がするが、日頃は格別無口で、とりつくしまもないような感じであった。後に気づいたことだが、かれは天井裏に食器の他、鋏や靴下など、色々な者を隠していて、員数不足でオロオロしている初年兵に、彼はそのなかから必要なものを撮りだしてくれていたようだ。
その時は考えてもみなかったが、天井裏の隠匿品影には、それを盗まれ、そのためにぶん殴られた多くの初年兵の嘆きがあったに違いない。しかし、そんな簡単なことに気がまわらないほど、私の良心はすでに麻痺していた。
ramtha / 2015年6月21日